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八重と篤志看護婦(とくしかんごふ)

篤志看護婦(とくしかんごふ)時代の新島八重
*篤志看護婦(とくしかんごふ)時代の新島八重

1890年1月23日新島襄は帰らぬ人となります。同志社にとって新島襄の存在はとても大きく混乱することは必至でした。同志社は発起人であった山本覚馬を臨時総長に迎え、熊本バンドのメンバーを中心に新たな体制で運営を開始します。


八重は、臨時総長となった覚馬の車いすを押して学校に通っていましたが、同志社の運営には積極的に参加をしませんでした。時々訪ねてくる在校生や卒業生に襄の思い出話しをしたり、会津戦争の体験を語っていたそうです。


八重は「社会に貢献したい!」という思いが強く、会津戦争で傷ついた人たちの看護をした経験から赤十字の活動に関心を持つようになります。


日本赤十字社の前身である博愛社は、元佐賀藩士で元老院議官の佐野常民(さのつねたみ)と信濃田野口藩主であった元老院議官の大給恒(おぎゅうゆずる)が1877年に設立しました。西南戦争において政府軍、薩摩軍(西郷軍)の区別なく看護活動を行い、その後1887年に日本赤十字社に名称を変更しました。


八重は襄が亡くなった三ヶ月後(1890年4月)には、日本赤十字社の社員となっています。1894年に起きた日清戦争では、篤志看護婦(とくしかんごふ)として広島の陸軍予備病院へ赴き負傷した兵士の看護をしました。


篤志看護婦とは、自ら志願して戦地へ行き、負傷者の手当てをする看護婦のことです。八重は日清戦争時すでに50歳だったので戦地には行きませんでしたが、この時の功績が認められ1896年に勲七等宝冠章を受けています。


さらに日露戦争では、1905年から二ヶ月間大阪の予備病院で看護活動を行い、豊富な経験から篤志看護婦のまとめ役として活躍し、1906年には勲六等宝冠章に叙されています。


八重は雑誌のインタビューで「私はもう年寄りで何もできないので、戦争で傷ついた兵士を慰めることをしていますが、手のない人、足の無い人、精神に異常をきたした人をみると、国家のためとはいいながら、お気の毒でなりません。


このような人たちの親や妻や子となった人たちの心はどんなであろうかと身を切られるようで、決して他人事とは思えません。名誉の負傷といって慰めてはいますが、知らず知らず涙があふれて室外へ出て眼を拭うことが度々あるのです」と語っています。

≪ 新島襄の遺言(遺書) | | 新島八重(宗竹 そうちく)と茶道 ≫

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