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日新館(にっしんかん)

会津藩士(上士)の子弟は6歳から9歳の間、「什」と呼ばれるグループに所属して目上の人に対する礼儀と集団行動を学びます。10歳になると藩校日新館(にっしんかん)に入り武士として必要な武道と学問を学習することが義務付けられていました。


日新館で学ぶことができるのは上士(身分の高い藩士)だけであり、下士(中ー下級藩士)は城外にある南北の学館で学びました。


日新館は1798年会津藩5代藩主松平容頌(まつだいらかたのぶ)の時代に、家老田中玄宰(たなかはるなか)の進言により建設が始まります。5年後の1803年に大成殿が建立されすべての施設が完成します。


7000坪を超える敷地には儒学の祖である孔子を祀った大成殿、校舎である素読所(尚書塾、二経塾、毛詩塾、三礼塾)、大学、水練池、天文台があり、学問と武道の両方を学ぶことができる環境が整っていました。


10歳で入学した子弟はまず素読所で学びます。儒学を基本とした科目を学習するのですが、1等級から4等級まであり試験に受からないと上の級に進むことができませんでした。また、身分により修得しなければいけない級が決まっていたそうです。


武道は弓術、槍術、刀術、馬術が必修科目で、その他に選択科目として砲術や水練などいくつかの科目がありました。


素読所を卒業すると成績優秀者は大学へ進学することができ、その中でも特に優秀な成績を修めた者は江戸の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)へ留学することができたのです。


山本覚馬とともに新設された蘭学所の教授となった南摩綱紀(なんまつなのり)も昌平坂学問所へ留学したうちのひとりです。

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