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白虎隊士中二番隊 飯盛山で自刃

1868年洋式軍制への改革を行った会津藩ではあらたに玄武(50歳以上)、青龍(36歳から49歳)、朱雀(18歳から35歳)、白虎(16歳から17歳)の4隊を編制します。各隊は身分により士中隊、寄合隊、足軽隊に分けられました。


中心となる隊は18歳から35歳で構成された朱雀隊、次いで36歳から49歳で構成された青龍隊でした。高齢の玄武隊は後備えであり、若年の白虎隊は予備隊だったのですが、新政府軍の怒涛の侵攻により国境の守備隊が敗北を喫すると玄武隊や白虎隊にも出撃命令がくだります。


八重の父権八も玄武隊として出陣し一ノ堰(いちのせき)の戦いで討死します。白虎隊の中でも身分の高い藩士(上士)で構成される士中隊は一番隊と二番隊があり、士中一番隊は松平喜徳の護衛として城下に留まり、士中二番隊は松平容保とともに滝沢村に向かいます。


援軍の要請があり士中二番隊は隊長日向内記(ひなたないき)に率いられ戸ノ口原に向かうのですが、急な出陣であったため兵糧の蓄えがありませんでした。日向内記は自ら食糧調達に出向きますが、道に迷い士中二番隊とはぐれてしまうのです。


すでに敵兵は目前に迫り、隊長が戻らない士中二番隊では篠田儀三郎(しのだぎさぶろう)が指揮をとることになります。戸ノ口原方面での戦闘が開始され士中二番隊も必死に戦いますが、実戦経験のない兵では新政府軍にかなうはずもなく退却を余儀なくされます。


生き残った飯沼貞吉の証言によれば、飯盛山にたどり着いたのは士中二番隊42名の内17名だったとされています。戸ノ口堰の洞門を抜けると彼らの眼に飛び込んできた光景は業火に焼かれる城下と黒煙に包まれる若松城でした。


落城寸前の光景に落胆した17名は集団自決の道を選ぶことになります。飯盛山で自刃した士中二番隊は身分の高い藩士の子弟で構成された部隊です。幼い頃から「什」で集団行動をとり、藩校日新館では主君に対する忠誠を教育され、主君のために命を捧げることが武士の本分であると教え込まれたのです。


黒煙に包まれるお城を見て、すでに主君はこの世にいないと考えるのも無理のないことです。主君に殉じる道を選ぶことは彼らにとってごく自然なことだったと思われます。飯沼貞吉が飯盛山での自刃について語ったのは晩年のことであり、記憶違いも考えられることから自刃した人数については諸説あります。現在のところ19人(飯沼貞吉を含めると20人)とされ、白虎隊十九士の墓が建てられています。