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神保修理(じんぼしゅり)切腹

1868年1月3日に戦端が開かれた鳥羽・伏見の戦いは幕府軍の惨敗に終わりました。薩長両軍よりも3倍の兵力を擁し本来なら負けるはずのない戦での敗戦に幕府は衝撃を受けます。薩長が保有する最新兵器の威力に押された面もありますが、敗戦の最大の原因は何といっても将軍慶喜の敵前逃亡にあります。


薩長軍に翻る錦旗(錦の御旗)を見た慶喜は朝敵になることを恐れ、軍艦開陽丸で江戸に退却してしまったのです。慶喜ひとりだけならまだしも、副将といえる存在の松平容保や容保の弟で桑名藩主の松平定敬(まつだいらさだあき)までも強引に帯同させたため戦場に置き去りにされた幕軍の兵士たちは大混乱に陥り多くの戦死者をだすことになります。


会津藩では130名を超える藩士が討死し、生き残った者たちの多くが傷を負っていました。命からがら江戸藩邸に戻った藩士たちの怒りは凄まじく「豚一 ぶたいち」のせいで負けたと罵る者もいたとされています。豚一とは将軍慶喜のことで一ツ橋家の出身で豚肉を好んで食べたことからこのようなあだ名がついていました。


悲憤する藩士たちの怒りの矛先は神保修理(じんぼしゅり)に向けられました。神保修理(じんぼしゅり)は会津藩家老神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の嫡男で会津の将来を担う逸材でした。


容保が京都守護職に就任してからも近習として仕え薩摩、長州、土佐藩士との親交もあったことから、西国諸藩に比べ会津藩の軍備が劣っていることを認識していたのです。そのため薩長との戦争には終始反対を唱え主戦派の佐川官兵衛(さがわかんべえ)等と対立していました。


鳥羽・伏見の戦いでは軍事奉行添役として出陣しますが、容保の敵前逃亡を進言したのは神保修理である!との憶測を呼び主戦派の憎しみを受けることになります。主戦派は君命として神保修理に切腹を命じます。もちろんこの君命は容保が発したものではありませんが、誰かが責任をとらなければおさまりがつかない状況下でこれを黙認したのです。


容保の戦線離脱の責任を一身に背負うかたちとなった神保修理は「余もとより罪なし、然れども君命を奉ずるは臣の分なり」と言い残し見事に切腹をして果てるです。
享年34歳。

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