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日本史
黒田官兵衛コンテンツ一覧
軍師官兵衛 雑学・豆知識
豊臣秀吉の軍師として秀吉の天下統一に貢献した黒田官兵衛(如水)は、関ヶ原の戦いでは嫡男長政とともに徳川家康の東軍につき福岡52万石を与えられます。福岡藩52万石の藩祖となった官兵衛は1604年3月20日京都伏見藩邸でその生涯を閉じます。辞世の句は「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」 この意味は・・・
黒田長政は黒田家の主力軍5400人を率いて関ヶ原の戦いに参戦しました。東軍の右翼として西軍石田三成隊(島左近・蒲生頼郷)と激しい戦いを繰り広げます。猛将島左近の見事な指揮に手を焼いた長政は鉄砲隊を迂回させ・・・
関ヶ原の戦いのとき黒田官兵衛は領地である豊前中津にいました。息子長政が主力軍を率いて関ヶ原本戦に参加をしていたため、官兵衛の元にはわずかな留守兵しか残っていませんでした。官兵衛は蓄えていた金銀で浪人を雇い・・・
豊臣秀吉の命令で朝鮮各地に築城した日本式の城や砦が倭城(わじょう)です。朝鮮の役(文禄・慶長の役)で朝鮮に渡った日本の武将たちは、釜山を拠点に慶尚南道や全羅南道、島に倭城を築き・・・
日本側代表 小西行長(こにしゆきなが)と明側代表 沈惟敬(しんいけい)の間で行われた和平交渉が亀裂すると、豊臣秀吉は再び朝鮮に兵を送ります(慶長の役)。総勢14万の日本軍は次々に海を渡り朝鮮に上陸!黒田官兵衛も軍監として小早川秀秋や毛利秀元を補佐する・・・
豊臣秀吉は明征服のためおよそ16万の軍勢を朝鮮半島に送ります(朝鮮の役・文禄の役)小西行長、加藤清正を先鋒とする日本軍は釜山に上陸すると3つのルートからそれぞれ漢城を目指し進軍を開始します。黒田官兵衛は息子長政に・・・
肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)は、黒田官兵衛が縄張りをしたと伝えられる城で、1592年豊臣秀吉の命令で築城されます。朝鮮を攻めるための拠点としての役割を持つ名護屋城は、軍事都市として栄え、最盛期には20万人・・・
20万を超える軍勢で北条氏を攻めた秀吉は、関東各地にある北条方の城を落とし制圧します。さらに、石垣山一夜城をつくり力の違いを北条氏に見せつけるのです。秀吉は黒田官兵衛を使者として小田原城に送り開城を迫ります。
小田原城を見下ろす石垣山に突如巨大な城が現れます。石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)と呼ばれるこの城は、巨大な石垣の上に天守が建つ本格的な城でした。小田原城に籠る北条氏政、氏直親子は・・・
上洛の命令に従わない小田原北条氏に業を煮やした豊臣秀吉は、総勢20万を超える軍勢で小田原征伐(おだわらせいばつ)を行います。徳川家康ら主力軍は東海道から、前田利家ら北国軍は上野国からそれぞれ進軍を開始・・・
戦国時代 北条早雲を祖とする後北条氏は早雲ー氏綱ー氏康ー氏政ー氏直と5代にわたり勢力の拡大につとめ、関東一円に広大な領土を有していました。後北条氏以前 関東の勢力図は・・・
黒田官兵衛は豊臣秀吉に与えられた新たな領地豊前国に入封します。しかし、秀吉や官兵衛に従わない国人や地侍たちが一揆を起こし黒田家は危機に陥ります。官兵衛は宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)の誅殺を画策し・・・