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荒木だし 荒木一族の処刑

1579年9月荒木村重の居城有岡城は信長軍によって包囲され落城寸前の状態にありました。村重は毛利や本願寺と連絡を取り合うため数人の家臣とともに尼崎城に移動していたため城内では村重の妻 荒木だしを中心とする家臣団が留守を守っていたのです。


信長は有岡城に籠もる荒木一族に対し、「尼崎城と花隈城を明け渡せば、人質の命を助ける」という条件を提示して開城を迫ります。


信長の要求を受け入れた有岡城では、一族の荒木久左衛門らが信長に人質を差し出し村重を説得すべく尼崎城に向かいます。


このとき、だしは夫である村重に「霜がれに残りて我は八重むぐら 難波の浦の底のみくづに(わたしは霜で枯れた八重葎<道端の雑草>のようなものです 難波の海底に沈む水屑となるだけです)」という歌を送ります。


この歌に村重は「思ひきや あまのかけ橋ふみならし 難波の花も夢ならんとは(これまで築き上げてきたものは夢のようにはかなくこのような状態になるとは思わなかった)」という歌を返します。


家臣たちの必死の説得にもかかわらず村重は信長の要求を受け入れることをしなかったのです。窮した久左衛門らは何と逃亡!これにより有岡城にいる荒木一族とその家臣たちの命運が尽きたのです。


信長は村重の家族や親族(逃亡した久左衛門の家族たち)等30名以上を大八車に縛りつけ、京都市内を引き回したうえ六条河原で斬首に処します。


このとき村重の妻だしは大八車から降ろされると帯を締めなおし髪を結い上げ凛とした態度で首をはねられたそうです。だしに見習い荒木一族の多くは立派な最期を遂げたとされています。


「残しおく そのみどり子の心こそ思ひやられてかなしかりけり」
「消ゆる身は惜しむべきにもなきものを 母の思ひぞ障りとはなる」
「みがくべき心の月の曇らねば光とともに西へこそ行け」

これらの句は荒木だし辞世の句といわれていますが真偽の程はわかりません。


尼崎近郊の七松では荒木家の重臣とその家族たち100名以上が磔にされ銃殺もしくは槍で突かれ殺害されます。女性や子どもたちの泣き叫ぶ声が辺り一面に響き、見ている者たちはあまりのむごさに目をそむけたといわれています。


さらに身分の低い家臣とその妻子は、あばら家に押し込められ焼き殺されました。信長によって処刑された荒木一族と家臣たちの数は600名を超えるといわれています。

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