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荒木村重(あらきむらしげ)謀反!

織田信長の命により中国攻めの総大将となった羽柴秀吉は三木城の別所長治、御着城の小寺政職、姫路城の黒田官兵衛の助力を得て播磨国の制圧にとりかかります。


織田に敵対する西播磨の福原城を攻め落とし、赤松政範の守る上月城を包囲します。秀吉の播磨攻略は着々と成果をあげていましたが、1578年2月それまで秀吉に協力的だった別所長治が突如信長を裏切り反旗を翻します。


東播磨の国人衆も別所に同調したため東播磨一帯は反信長となったのです。秀吉は信長の命令により上月城を放棄して別所長治の三木城を攻撃しますが、その最中に驚愕の一報がもたらされます。摂津の大名荒木村重(あらきむらしげ)もが信長を裏切ったというのです!


信長の信任厚かった村重がなぜ裏切ったのでしょうか?謀反の理由ははっきりしていませんが、信長により一族を処刑されてもなお自分だけは生き残り自らを道糞と名乗った村重!後世の人に卑怯者と呼ばれた荒木村重とはどのような人物だったのでしょうか?


荒木村重の出自は謎が多くよくわかっていません。藤原秀郷の末裔で祖父の代に摂津に移り住み、父の義村は摂津の国人 池田長正に仕えたとされています。池田長正の有力な家臣となった義村の嫡男として誕生したのが村重でした。


村重の代になると池田家に内紛が勃発しますが、村重は反対派のリーダーである池田勘右衛門を酒宴の席で討ち果たし武名をあげ主君池田勝正の信頼を得ます。


1568年尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、信長は摂津の統治を安定させるため和田惟政、池田勝正、伊丹親興を配し、この三氏を守護に任命するのです。


和田惟政は室町幕府の幕臣で十三代将軍足利義輝が松永久秀によって暗殺されたときに、軟禁されていた足利義昭を救い出した人物で、池田勝正と伊丹親興は摂津国の有力な国人です。


1570年になると池田氏に内紛が起こります(池田勝正対池田知正)村重は知正を支持して主君勝正を追放すると池田家の実権を掌握します。知正は信長に敵対する三好三人衆に近づきますが、これを察知した和田、伊丹、茨木氏は知正を討つべく兵を挙げます


1571年8月、白井河原で池田知正(荒木村重、中川清秀)対和田、伊丹、茨木連合軍が激突!荒木村重は茨木重朝を、中川清秀は和田惟政をそれぞれ一騎討ちで討取り勝利を収めるのです(白井河原の戦い)


摂津国内で影響力を強める村重はやがて信長に近づき、三好三人衆を支持する主君池田知正を追放し池田家の乗っ取りに成功します。村重は信長に謁見を許され信長から摂津国の守護に任命されます。


村重は、池田家の家臣であった中川清秀や和田惟政に仕えていた高山右近らを与力として従え摂津国35万石を統治していきます。


この当時、信長にとって最大の敵は石山本願寺でした。国人衆の争いが絶えずまとまりのなかった摂津国を荒木村重に任せることで統治を安定させ、対本願寺の先兵として利用することを考えたのでした。


村重は信長の期待に応えるべく各地の戦場を転戦し武功をあげ織田家中でも重要な武将のひとりに数えられるようになりますが、1578年10月 その村重が突如信長に謀反を起こします。


村重逆心の噂はたちまち広がり、細川藤孝をはじめ複数の武将から信長へ一報が届けられたのです。信長は最初その報告を信じようとせず、真偽を確かめるため明智光秀、松井友閑、万見重元を村重の元へ派遣します。


村重は「異心を抱くようなことはありません。追って安土に伺い申し開きします」と返答しますが安土に来る様子はなく、痺れを切らした信長は11月になると村重の居城有岡城に向け出陣を開始します。


それでもなお村重を翻意させたい信長は、羽柴秀吉、明智光秀、松井友閑を説得に向かわせますが、村重の気持ちが変わることはありませんでした。


村重は居城有岡城で信長軍を迎え撃つ準備を整えます。村重に同調した高山右近は高槻城、村重の嫡男村次が守っていた茨木城には中川清秀を配し、村次には尼崎城を守らせます。


激怒した信長は村重を討つべく本格的に攻撃を開始するのです。