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小田原城開城と黒田官兵衛

1590年豊臣秀吉は天下統一事業の仕上げとして関東の雄 小田原北条氏の討伐を宣言します。20万を超える軍勢を引き連れ関東に攻め込んだ秀吉は小田原城を取り囲むとともに、北条方の城を個別に撃破する作戦をとります。


一方、これを迎え撃つ北条氏政、氏直親子は鉄壁の守りを誇る小田原城に籠城する構えを見せ、一族や重臣、有力国人らを小田原城に集め守りにつかせます。


関八州を統治する北条氏は250万石を超える領土を持ち、最大動員兵力は10万ともいわれていました。秀吉は1~2年の長期戦になることを覚悟して事前に兵糧を集め戦いに臨みます。


しかし、徹底抗戦をすると思われていた北条方の城は次々降伏し、3か月程で関東の制圧に成功します。


北条氏にとって誤算だったのは秀吉の軍勢が思っていたよりも大軍であったことと、小田原城の守りを固めるため、主だった城主を小田原城内に集めたことで各城の守りが手薄になってしまったことでした。


短期間で北条方の城を攻略したことにより、兵力に余裕のでた秀吉は小田原城の囲みを厳重にします。完全に包囲された北条氏は周辺の城に応援の兵を送ることもできず落とされるのを黙って見ているしかありませんでした。6月24日に韮山城が落とされると、北条方の城で残るのは忍城のみとなります。


秀吉は小田原に到着した当初から密かに小田原城の南西に石垣山城を築城していました。城が完成すると、周囲を覆っていた樹木を伐採してあたかも一夜で城が完成したかのような演出をするのです。


夜が明けるとともに突然出現した城に北条方は度肝を抜かれたといわれています。秀吉の圧倒的な力に戦意を喪失する北条氏!戦を終わらせる頃合いと読んだ秀吉は、小田原城に使者を送り降伏を勧告します。このときの使者が黒田官兵衛でした。


官兵衛は荒木村重謀反の折、有岡城に単身乗り込み説得を試みますが、失敗して1年近く幽閉された苦い経験があります。今回は同じ失敗を繰り返さないため、事前に準備をしていました。

北条氏政(ほうじょううじまさ)
*4代当主 北条氏政(ほうじょううじまさ)

小田原征伐当時、北条氏の当主は5代氏直でしたが、父 氏政は健在であり発言力も大きいものがありました。氏直と氏規(氏政の弟)は秀吉との戦に消極的だったのですが、氏政や氏照(氏政の弟)が徹底抗戦を唱えたためこれに引きずられるかたちで開戦に踏み切ったのです。

北条氏直(ほうじょううじなお)
*5代当主 北条氏直(ほうじょううじなお)

官兵衛は氏直の弟である氏房に目をつけます。氏房の居城岩付城は、小田原城で籠城している氏房にかわり家臣が守っていましたが、浅野長吉(浅野長政)、本多忠勝ら2万の軍勢に攻められすでに降伏していました。氏房の妻子は捕虜となっていたのです。


官兵衛は妻子を使い城内の氏房と連絡をとり仲介を依頼するとともに、酒と肴を小田原城内へ贈り届け礼を尽くします。お返しとして小田原城からは鉛と弾薬が送られてきました。


鉛と弾薬のメッセージをどう受け取るか?黒田家中でも意見が分かれますが、官兵衛は「北条はもう戦う気がない!降伏の準備はできている」というメッセージだと判断します。タイミングは今しかない!官兵衛は使者として小田原城に向かいます。


礼装で身を整えた官兵衛は、刀を差さずに入城して氏政、氏直と対面します。官兵衛は関東の覇者である北条の武勇を褒め称えると、援軍なき籠城戦の不利を説き、これ以上の戦は無意味であると氏政を説得するのです。官兵衛の粘り強い説得に氏政、氏直は降伏を決意します。


1590年7月小田原城は開城され小田原征伐は終了します。秀吉は戦犯として氏政、氏照、松田憲秀、大道寺政繁に切腹を命じます(介錯は氏規)氏直は助命され氏規、氏房らとともに高野山に追放となります。のちに赦免され1万石の大名になりますが30歳で病死。


氏直には子がいなかったため、北条家は氏規が継ぎ、江戸時代になると氏規の子氏盛が狭山藩1万石の藩祖となり明治まで存続しました。

北条氏系図(ほうじょうしけいず) 小田原城開城
*北条氏系図