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黒田官兵衛・長政 宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)を誅殺!

九州征伐の論功行賞で豊前国に六郡を与えられた黒田官兵衛は1587年6月新領地に入封します。京都郡(みやこぐん)の馬ヶ岳城(うまがだけじょう)に入った官兵衛と家臣団はここを拠点に領地経営を行います。


見ず知らずの地を治めていくことはとても難しく新領主の政策に反発して争いになることもよくありました。豊臣秀吉は全国を統一する過程で、新たに従えた国‎に対し農地の面積と収穫量を調査する太閤検地を実施します。この太閤検地により農作物の生産力で軍役や年貢が決まる石高制が確立されます。


官兵衛は入封後早速検地を行います。検知は家臣を村に派遣して調査をする丈量検地(じょうりょうけんち)と農民に自己申告させる差出検地がありますが、官兵衛は領民との軋轢を避けるために厳格な丈量検地ではなく、ゆるい差出検地を実施します。


官兵衛は過少申告による税収の減少よりも、領内の治世を安定させることを優先したのです。それでも新領主に不満を持つ者があらわれます。豊前六郡(京都、仲津、上毛、下毛、築城、宇佐)のうち下毛郡で一揆が起こると周辺の国人や地侍も加勢し大規模な一揆となります。


官兵衛は鎮圧するために兵を送り一揆の拠点であった犬丸城を落とし制圧に成功します。官兵衛は領国の治安を安定させるために新たな城の築城に取り掛かります。平野を流れる山国川の河口に縄張りを施し、本丸と二の丸、水堀を備えた中津城を築いたのです。天然の川をそのまま堀として使用した中津城は日本三大水城(中津城、高松城、今治城)のひとつに数えられています。


下毛郡の一揆鎮圧と中津城の築城により治世は一時安定しますが、城井谷(きいだに)城主 宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)は黒田家の支配を認めず徹底抗戦の構えを崩していませんでした。


宇都宮氏(城井氏)は下野国の守護である宇都宮氏の庶流で、鎌倉時代に豊前国仲津郡城井郷に住みついたことから城井氏(きいし)とも呼ばれ鎮房は16代目の当主にあたります。


豊前国に勢力をもつ大身の国人で、山間部にある城井谷城(城井ノ上城)を拠点に代々この地を治めていました。宇都宮鎮房は、九州征伐後、秀吉により伊予国へ国替えを命じられますが、これを不服として領地を明け渡さず城井谷城に籠っていたのです。


1588年佐々成政の治める肥後国で大規模な国人一揆が起こり、鎮圧のため官兵衛は肥後‎に出兵します。留守を預かった長政は宇都宮鎮房の城井谷城を力攻めしますが、険しい山間部にある城井谷城は天然の要害であり攻め落とすことができませんでした。


力攻めをあきらめた長政は兵糧攻めに切り替え追い詰めますが、なかなか降伏しない鎮房に対して本領の安堵と鎮房の娘 千代姫(鶴姫)を長政の嫁に迎える条件で和議が成立します。長政は中津城に鎮房と千代姫(鶴姫)を迎え婚約の宴を催しますが、その最中に黒田家の家臣が乱入して鎮房を惨殺!城下にある合元寺(ごうがんじ)に詰めていた鎮房の家臣たちも皆殺しにされるのです。


さらに、黒田の兵が城井谷城を急襲して宇都宮一族をことごとく討取ります。宇都宮氏の家臣が多数殺害された合元寺の壁はこのときの返り血で真っ赤に染まったとされています。その後、血を拭き取っても拭き取っても再び浮き上がってきたため壁は赤く塗られました。そのため合元寺は赤壁寺と呼ばれます。


宇都宮氏の誅殺は黒田家に暗い影を落とします。宇都宮一族の怨念を鎮めるために長政は城内に城井神社、扇城神社を建立します。関ヶ原後に国替えとなった福岡にも城井神社を建て宇都宮一族を鎮魂するのです。


宇都宮氏の粛清により豊前国で黒田家に敵対する勢力はいなくなり治安は安定します。宇都宮氏の誅殺は長政独自の判断ではなく官兵衛の指示の元行われたようです。宇都宮氏の反乱は黒田家に対するというより秀吉の政策への反発でもあったのです。


肥前の一揆では領主の佐々成政がその責任を問われ秀吉に切腹を命じられています。反乱が長引けば黒田家もどうなるかわかりません。また、秀吉にまだ従っていない関東や東北の諸大名を制圧し天下を統一するためにも反乱を早急に鎮める必要があったのです。そのため騙し討ちという卑怯な手段をとり宇都宮氏を滅ぼしたのです。

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