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小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)

本能寺の変後、織田家を支えてきた4人の宿老の明暗が分かれます。主君信長を討った明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ竹やりで刺殺されます。


柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ自刃!、滝川一益は蟄居、丹羽長秀は秀吉に協力をして家名を存続させます。


信長の死後わずか1年でライバルを排除した秀吉!織田家中で秀吉に対抗できる勢力はいなくなります。


天下を自分のものとしたい秀吉にとって目の上のこぶが信長の次男 信雄でした。三法師の後見役として存在感を示そうとする信雄とこれを排除しようとする秀吉の関係はしだいに悪化します!


信雄は徳川家康と同盟を結び秀吉に対抗する動きをみせますが、秀吉は信雄陣営を内側から崩すべく調略をしかけます。信雄の3人の家老(津川義冬、浅井長時、岡田重孝)が秀吉側に内通したとの噂を流します。この噂を信じた信雄は3人の家老を殺害してしまうのです。


この事件により信雄と秀吉の対決は避けられないものとなります。家康、信雄と対決することを決めた秀吉は*池田恒興(いけだつねおき)と*森長可(もりながよし)に自分の味方をするよう働きかけます。


秀吉側についた池田恒興は、信雄の家臣中山雄忠が守る尾張国犬山城を攻撃してこれを落とします。秀吉は犬山城を前線基地として信雄の所領である尾張国の攻略にとりかかります。


池田恒興の娘婿である森長可は3千の兵を率いて戦略上の要地である小牧山を占領すべく進撃をしますが、これを察知した酒井忠次、奥平信昌率いる徳川軍5千の急襲を受け敗退します(羽黒の戦い)


羽黒の戦いの敗戦を聞いた秀吉は出陣の準備を進めますが、背後を根来・雑賀衆に脅かされ手間取ります。この間に小牧山城に砦を築いた徳川軍は戦略的に有利な状況をつくりあげたのです。


1584年3月21日に秀吉本軍3万が尾張に向け出陣します。それと呼応するように根来・雑賀衆も兵を進め秀吉方の岸和田城を取り囲み攻撃をしかけますが、城主中村一氏や援軍にかけつけた黒田長政らの活躍もありこれを撃退するのです(岸和田城の戦い


尾張に侵攻した羽柴軍に対し小牧山に防衛ラインをつくった家康軍はこれを迎え撃つ体勢を整えます。秀吉軍10万、家康、信雄軍1万8千と兵の数では圧倒的に秀吉軍に有利な状況ですが、要所を押さえている徳川軍に対し攻撃ができないまま両軍にらみ合いのこう着状態となります。


この持久戦にしびれを切らしたのは秀吉陣営でした!池田恒興が手薄になっている家康の居城岡崎城を攻め落とす作戦を提案したのです。秀吉は当初この作戦には消極的でしたが、恒興の強い要請に断りきれなくなりこれを認めるのです(作戦を考えたのは秀吉とする説もあります)


秀吉は甥の秀次を総大将とし池田恒興、森長可、堀秀政に総勢2万5千の兵を与え岡崎城の攻撃を命じます。4月6日に出発した岡崎城攻撃軍は途中にある敵方の岩崎城を攻めこれを落とすとさらに勢いをつけ進軍します。


しかし、この作戦はすでに徳川方に筒抜けであり、家康は追撃部隊を整え密かに追尾します。さらに家康本隊も小牧山から動き岡崎城攻撃軍を追うのです。


岡崎城攻撃軍に追いついた家康の追撃部隊は、9日未明に秀次の軍に奇襲をしかけます!不意の攻撃に混乱した秀次軍はあえなく敗走!堀秀政は敗走する秀次軍を収容しながら反撃をしますが、家康本軍が戦場に到着したことを知ると不利をさとり退却を始めます。


秀次軍の敗走、堀秀政軍の退却により戦場に取り残されるかたちとなった池田恒興、森長可軍は家康軍と戦う決意をします。


両軍の兵力はほぼ互角!合戦が始まってしばらくは一進一退の攻防を繰り広げていましたが、次第に徳川軍が優勢となり、井伊直政の猛攻を受けた森軍が崩れ森長可が討死!


勢いにのった徳川軍の攻撃を受けきれなくなった池田軍も壊滅!池田恒興も討死し秀吉軍の惨敗に終わります。


勝利した家康は清洲城に帰還。秀吉もいったん大坂城に戻り体勢を立て直します。秀吉は家康と直接戦うことを避け、攻撃目標を信雄に絞り信雄の領内にある諸城を攻め落としていきます。


追い詰められた信雄は秀吉からの和議の要請を受け入れてしまうのです。信雄という大義名分を失った家康も兵を引き小牧・長久手の戦いは終結するのです。


*池田恒興(いけだつねおき)
池田恒興は父池田恒利と母養徳院の間に誕生しました。
母養徳院が織田信長の乳母であり、信長とは乳兄弟の間柄となります。

信長につき従い数々の合戦に参戦した恒興は、信長からの信頼も厚く、荒木村重謀反後に大坂を与えられます。

本能寺の変で信長が横死すると、清洲会議では羽柴秀吉を支持して柴田勝家と対立します。賤ヶ岳の戦い後に美濃大垣城主(13万石)となりますが、小牧・長久手の戦いで嫡男 元助共々討死してしまうのです。

恒興と元助を失った池田家では次男の輝政が家督を継ぎます。輝政は徳川家康の次女督姫を妻に迎えたことで徳川家との結びつきが強くなり、関ヶ原の戦いでは東軍に味方をします。

関ヶ原後に播磨姫路52万石を拝領し大大名となります。さらに、小早川秀秋死去にともない廃絶となった小早川家にかわり、輝政の次男忠継に岡山藩28万石が与えられ、池田家は一族あわせて90万石を超える領地を獲得し繁栄を極めるのです。

池田恒興(いけだつねおき)系図
*池田恒興系図

*森長可(もりながよし)
森長可は森可成(もりよしなり)の次男として誕生します。弟に森蘭丸。
正室は池田恒興の娘。

父の森可成は早くから信長に仕えた古参の家臣で信長からの信頼も厚く、可成の三男蘭丸、四男坊丸、五男力丸の三人は信長の小姓となります。

森一族は勇猛果敢で可成は戦場で討死!嫡男の可隆も討死していたため、家督は次男の長可が継ぎます。

長可も父や兄に劣らず勇ましい武将で「鬼武蔵」とも呼ばれていましたが、小牧・長久手の戦いで義父池田恒興とともに討死。

長可には子がいなかったため、家督は弟の忠政(六男)が継ぎます(三男蘭丸、四男坊丸、五男力丸の三人は本能寺の変ですでに討死)

忠政は江戸時代に美濃18万石の領主となり津山藩主となりました。

森長可、森蘭丸系図
*森長可系図

≪ 岸和田城の戦い(きしわだじょうのたたかい) | | 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)土佐統一 ≫

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