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福岡52万石と黒田官兵衛の死 辞世の句「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

関ヶ原の戦いにおける論功行賞で黒田家は豊前中津12万石から筑前一国52万石へと加増されます。筑前国に入封した黒田長政は名島城に入りますが、城下町を拡張するには手狭であったため、博多に隣接する福崎に新たな城を築城します。


城の縄張りは長政自身で行いますが、築城の名人である官兵衛の助言もあったと思われます。城の着工は1601年とされ翌年に完成しました。


福崎の地を福岡と改め新たな居城は「福岡城」と呼ばれるようになります。福岡という地名の由来は、黒田氏発祥の地が「備前国福岡」であることからこの名がついたとする説が一般的ですが、「備前国福岡」発祥説には懐疑的な意見も多いことから謎とされています。


福岡城はおよそ27万平方メートルの広さがあり、本丸、二の丸、三の丸、曲輪、櫓を備えた壮大な城でその規模は九州一でした。櫓の数は47もあり、天守台や礎石(そせき)も存在していることから、当時は天守が建てられていたといわれています。何らかの理由で一度建てた天守を破却したようなのですが、その理由はわかっていません。


福岡城が完成すると官兵衛と光は三の丸に住むようになり、さらに太宰府天満宮内に草庵を構えそこで過ごすことも多かったとされています。倹約家の官兵衛らしく生活は大変質素なものだったと伝えられています。


1603年征夷大将軍に就任した徳川家康は宮中に参内するため上京します。官兵衛も領地の福岡から上洛しますが、体調を崩したため有馬温泉で逗留するも病状は回復せず、京都伏見藩邸で寝込むようになります。


死期を悟った官兵衛は領国を統治するための心構えを説いた遺書を長政に残します。また、葬儀は質素にすること、殉死を禁ずるなどの遺言を残しています。


黒田官兵衛(如水)は、1604年3月20日京都伏見藩邸でその生涯を閉じます。享年59。


辞世の句は「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」
「思い残す言葉もなく、ついにあの世に行くことになったが、道には迷わずに行けるだろう 成り行きに任せることにしよう」


官兵衛(如水)の亡骸は福岡の崇福寺(そうふくじ)に葬られます。法名は龍光院。崇福寺は黒田家の菩提寺となります。さらに長政は官兵衛(如水)のために京都の大徳寺に塔頭、龍光院を建立して位牌を安置しました。


長政は備前長光の茶入れと刀を官兵衛(如水)の遺品として家康に献上し、徳川秀忠は香典として銀子200枚を黒田家に贈ります。


■臨終に際しての逸話
体調が悪化し死期が近づいた官兵衛の元には別れを言うために多くの家臣が訪れるようになります。

官兵衛は見舞いに来た家臣の悪口や過去の失敗、働きぶりを叱ります。あまりにも酷い言葉で叱るので家臣たちは戸惑い官兵衛の元から去っていきます。

見かねた長政が「家臣を罵るのはやめてください」と諌めると、官兵衛は「すべてお前のためにやっているのだ!ワシから心が離れれば家臣たちはお前に忠勤を励むようになるだろう。そうなれば家中をまとめるのも容易いだろう」と長政に言ったのです。


■官兵衛亡き後の黒田家
福岡藩初代藩主となった長政は大坂冬の陣、夏の陣とも徳川方につき、徳川家との結びつきをさらに強固なものとします。長政は、1623年8月4日上洛中に病が悪化して報恩寺で息を引き取ります。享年56歳。

官兵衛の妻 光は1627年福岡で亡くなります。享年75

栗山利安(栗山善助)は1631年に死去。享年82。

母里友信(母里太兵衛)は1615年に死去。享年60。

井上之房(井上九郎右衛門)は1634年10月22日に死去。享年81。


■黒田騒動
長政の死後家督は嫡男忠之が継ぎ福岡藩2代藩主となりますが、忠之は側近(倉八十太夫)を重用し、祖父や父の代から仕えた重臣をないがしろにしたため、家臣との間に対立が起こり深刻な状況となります。

1632年栗山利安(栗山善助)の嫡男利章は「忠之が謀反を企てている」と幕府に訴えでたため大騒動となります(黒田騒動)この事件で黒田家は改易の危機に立たされますが幕府は「利章の乱心」が原因であるとの裁定を下し、利章を盛岡藩預かりに、倉八十太夫を高野山に追放して黒田家は御咎めなしとなります。

黒田忠之(くろだただゆき) 黒田騒動
*黒田騒動を起こした福岡藩2代藩主黒田忠之(くろだただゆき) 


■幕末の福岡藩
幕末には11代藩主黒田長溥(くろだながひろ)が登場します。長溥は幕末の名君に数えられる人物で、西洋の技術を積極的に取り入れ医学校の創設や反射炉の建設を行います。しかし、藩内では佐幕派と尊皇攘夷派の対立が激化!尊攘派が藩政を握るようになります。

尊攘派の加藤司書、月形洗蔵、平野国臣らは薩摩の西郷隆盛や長州の桂小五郎とともに政治の表舞台で活躍するようになりますが、やがて幕府を倒す「尊王倒幕」へと思想を変えていきます。

長溥の思想は「尊王佐幕」と呼ばれるもので、尊王ではあるが幕府を助け幕藩体制のもとで改革を行うという考え方でした。

倒幕へと暴走する福岡勤王党の存在は幕府から警戒され、福岡藩も倒幕派と見られるようになります。危機を感じた長溥は、1865年福岡勤王党の弾圧に乗り出し21名を切腹または斬首にする処分を行います(乙丑の変 いっちゅうのへん)

この大弾圧により加藤司書や月形洗蔵といった有能な人材を失った福岡藩は、尊王倒幕運動から脱落し薩摩、長州、土佐、肥前の後塵を拝することになり、戊辰戦争では活躍の場を与えられることはありませんでした。

黒田家では長溥の養子となった長知(ながとも)が12代藩主となり、版籍奉還後には知藩事に就任します。長知の長男 長成(ながしげ)は1884年に制定された華族令により侯爵となりました。

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