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鳥取城の戦い 鳥取の渇殺し(かつえごろし)

鳥取城の戦い

1579年10月荒木村重の居城有岡城が落城し、幽閉されていた黒田官兵衛が家臣によって救出されます。


劣悪な環境での幽閉生活により皮膚病を患っていた官兵衛は頭髪が抜け落ち、足の関節が曲がり歩くこともままならない状況でした。


忠臣たちの活躍により牢獄から助け出された官兵衛は、有馬温泉に向かいしばしの間湯治をして体を休めます。


一方、有岡城を落とした織田信長は兵力に余裕がでてきたことから、三木城の兵糧攻めを続けるとともに織田に敵対する播磨の国人衆を攻撃します。官兵衛の主君であった小寺政職の御着城は織田信忠の攻撃を受けあっけなく落城!政職は毛利領へ逃亡します。


1580年1月には三木城の別所長治が降伏し東播磨の制圧に成功するのです。さらに信長は西播磨で敵対する三木通秋の英賀城(あがじょう)、宇野政頼の長水山城(ながみずさんじょう)を攻めこれを落城させます。


播磨を勢力下に治めた信長は毛利の領土へ本格的に攻撃を開始します。播磨と隣接する因幡国(いなばのくに)への攻撃を羽柴秀吉に命じるのです。


1580年6月秀吉は毛利と結んでいた山名豊国(やまなとよくに)の鳥取城攻略に取り掛かります。堅牢な鳥取城を力攻めにすれば味方の損害も大きくなると考えた秀吉は、三木城と同様に兵糧攻めを行います。

因幡鳥取城絵図
*鳥取城絵図

秀吉は鳥取城を包囲しながら、豊国に対して調略活動を行い織田に味方するよう説得を開始するのです。播磨を制圧した織田軍の勢いに恐れをなしたのか、豊国は3ヵ月の籠城ののちこの説得を受け入れ降伏します(第一次鳥取城の戦い)


毛利から織田へ寝返った山名豊国ですが、鳥取城を守る家臣たちの多くはこの豊国の決断に不満を持っていました。秀吉が鳥取城から軍勢を引き上げると、中村春続、森下道誉ら城内の主だった家臣が離反!再び毛利につくことを豊国に迫ります。


1580年9月 命の危険を感じた豊国は鳥取城から出奔し(もしくは追放され)秀吉のもとに身を寄せるのです。主のいなくなった鳥取城には、毛利一門である吉川経安(石見吉川氏)の嫡男吉川経家(きっかわつねいえ)が派遣され城番として鳥取城の指揮にあたります。経家は猛将の呼び声高い人物で、自分の首桶を持参して鳥取城に入城したと伝わっています。

吉川経家(きっかわつねいえ)系図
*吉川経家系図

1581年3月城内に入った経家は米の備蓄がわずかしかないことに驚きます。急いで周辺の農家から米を集めようとしますが米はほとんどなかったのです。実は秀吉が城下の米問屋や周辺の農村に若狭の商人を送り込み、市価よりも高値で米を買い取っていたのです。


この兵糧米の買取りを指揮したのが黒田官兵衛だといわれています。有岡城から救出され体を休めていた官兵衛がいつごろ復帰したのか詳細な記録が残っていませんが、第一次鳥取城の戦いには参戦していたようです。


買い取った米は船で若狭に運ばれたため鳥取城下には米がほとんど残っていませんでした。吉川経家は毛利本国に使いを派遣し、兵糧米を早急に送るよう依頼をします。


鳥取城の米蔵が空っぽであるのと知らせを受けた毛利では、兵糧米を搬入する手はずを整え、一部の米は水軍の活躍もあり海路から城内に運ばれます。


しかし、1581年7月秀吉は大軍を率いて再び鳥取城を包囲するのです。羽柴秀長、蜂須賀正勝、仙石秀久、浅野長吉、黒田官兵衛、梶尾吉晴、中村一氏、一柳直末ら2万を超える軍勢で鳥取城を囲み、砦を築き兵糧米の搬入経路をすべて塞ぎます。


さらに秀吉は城内にある兵糧を枯渇させるため、鳥取城を包囲する際、城下周辺の農村を襲い村人たちを鳥取城内に追い立てたのです。鳥取城では逃げ込んできた農民たちへの食糧を支給せねばならず、米蔵はあっという間に底をつきます。


籠城当初は黒田官兵衛の陣に夜討ちをかけるなど士気の高かった城兵ですが、食糧の支給が2日に一度、3日に一度、5日に一度と滞るようになると士気が衰えやがて強烈な飢餓に襲われます。


米の支給が止まると城内にいた人たちはみるみる痩せ細り、牛や馬、犬、猫、草の根、葉、木の皮などを食べ尽くします。それらも無くなると、ついには埋められていた死体を掘りおこし人肉を食べるという行為におよびます。


城を囲んでいた柵を乗り越え脱出しようとする者が現れると、秀吉軍は容赦なく鉄砲を打ちかけます!打たれた者の周囲には人がむらがり、関節から手足をもぎとり人肉の奪い合いが行われるという地獄さながらの状況となったのです。


このおぞましい光景を見た吉川経家は降伏を決断します。経家は自分の命と引き換えに籠城している者を助けるよう秀吉と交渉を行います。秀吉は経家の名を惜しみ切腹を思いとどまらせようとしますが、経家の決意は固く秀吉の説得を固辞します。


最終的に吉川経家、中村春続、森下道誉、塩冶高清ら6名が切腹となり、城中にいた人たちは助命され、開城後には粥が支給されました。鳥取の渇殺し(かつえごろし)と呼ばれたこの戦いは、兵糧攻めの恐ろしさ、過酷さを後世に伝えることになったのです。