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黒田光(くろだてる)櫛橋光(くしはしてる)幸円(こうえん)

櫛橋光(くしはしてる)は、1553年播磨国志方城城主櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘として誕生しました。光には幸円(こうえん)という名もありますが、これは雅号(がごう)だとされています。雅号とは、書家や画家、詩人などが本名以外につける風流な名前のことです。


櫛橋光は、15歳のときに黒田官兵衛と結婚をします。光と官兵衛の結婚がいつ頃であったのか年代を記した史料は残っていないのですが、黒田家譜には結婚の翌年長男松寿丸(長政)が誕生したとの記述があることから、光と官兵衛結婚は1567年ごろだと推測されます。


光の実家櫛橋氏は播磨国の守護赤松氏に仕えていましたが、戦国時代になり赤松氏が衰退すると他の国人衆と同じように独立した行動をとるようになります。


結婚当時、家の格でいえば櫛橋氏のほうが上ということになります。櫛橋氏と小寺氏は同じ赤松氏の家臣ですが、黒田氏は姫路城の城代をつとめていたものの小寺氏の家老でしかなかったからです。


それにもかかわらずこの結婚には櫛橋伊定のほうが積極的であったとされています。伊定は、結婚の前年に兜と胴丸具足を官兵衛に贈っています。豊富な財力を背景に小寺氏の家老として影響力を強める黒田氏の実力を評価していたのでしょう。官兵衛の才能を見抜いていたのかも知れません。

黒田官兵衛 兜(くろだかんべえかぶと)画像
*櫛橋伊定から贈られたといわれる黒田官兵衛の兜

櫛橋伊定の予想通りこの結婚は櫛橋氏にとって良縁となります。後年、織田信長に反旗を翻した櫛橋氏は播磨に攻込こんだ信長軍と戦をしますが敗北を喫します。伊定は家臣の助命を嘆願しこれが認められると、自害をして果てるのです。


官兵衛の正室となっていた光の働きもあり滅亡を免れた櫛橋氏は、光の兄が跡を継ぎ黒田氏の家臣として生き残ることができたのです。


光と官兵衛の結婚の媒酌人は小寺政職(こでらまさもと)がつとめています。政職は光を自分の養女にしたうえで官兵衛に嫁がせています。小寺氏にとっても自らの影響力を強めるため櫛橋氏との関係を強化したい狙いがあったのでしょう。


光と官兵衛の間には長男 松寿丸(長政)と次男 熊之助が誕生します。二人の仲は睦まじく、官兵衛は生涯側室を持たなかったといわれています。官兵衛が有岡城に幽閉され消息不明になると、動揺する家臣団をまとめ難局を乗り切ります。


関ヶ原の戦いでは、石田方に屋敷を囲まれますが、家臣の機転もあり俵の中に隠れ間一髪で大坂から脱出します。関ヶ原の功績により嫡男長政が筑前国で50万石を賜ると、夫官兵衛は政治の世界から引退をして隠居生活を送ります。


光も官兵衛とともに穏やかな隠居生活を送ったとされています。官兵衛(1604年没)と長政(1623年没)を看取った光は1627年に75年の生涯を終えるのです。