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中国大返し 毛利は本能寺の変をいつ知ったのか?

天正10年(1582年)6月2日 備中出陣のため本能寺に滞在していた織田信長は家臣明智光秀の謀反にあいその生涯を終えます。


備中高松城を攻めていた羽柴秀吉、黒田官兵衛のもとに本能寺の変の一報が伝わったのは6月3日夜もしくは4日未明だったとされています。なぜ秀吉はこれほど早く本能寺の変を知ることができたのでしょうか?


本能寺の近くに住んでいた茶人長谷川宗仁(はせがわそうにん)が飛脚を使い秀吉の陣に本能寺の変を知らせたとする説と、明智光秀が毛利を味方にするため送った密使が秀吉方に捕らえられたことにより露見したとする説があります。


信長横死の情報を毛利より先に得た秀吉陣営は、街道を封鎖して見張りを強化するとともに、毛利方の外交担当であった安国寺恵瓊(あんこくじえけい)と交渉を行い、4日に和睦を締結します。


同日、備中高松城主清水宗治ら4人の切腹を見届けた秀吉陣営は撤退の準備にとりかかりますが、すぐには動かず5日は毛利の様子を監視し、6日になって撤退を開始するのです。


一方、毛利陣営に本能寺の変の知らせが届いたのは4日の夜ないし5日とされています。すでに和睦は締結され、清水宗治は切腹!、秀吉陣営は撤退の準備をしていました。


秀吉と官兵衛にまんまとしてやられた毛利陣営は激怒し「追撃をすべき!」との声があがりますが、小早川隆景は「誓紙の墨が乾かぬうちに約束を反故にするのは武士にあるまじき行為である」としてこれをいさめたとされています。


以上の流れが通説となっていますが、本当に毛利は4日の夜ないし5日まで本能寺の変を知らなかったのか?という疑問が残ります。


越中国で上杉と合戦中であった柴田勝家も4日には本能寺の変の情報を入手していました。備中よりもさらに遠い北陸にいた柴田勝家でさえ4日には知っていたのです。


3日夜もしくは4日未明に情報を得た秀吉が特別早かったわけではありません。毛利も和睦時には本能寺の変を知っていたと考えてもおかしくないのです。


毛利は情報戦略に長けた一族です。安芸の小さな国人であった毛利元就はあの手この手の調略、謀略を行い毛利家を中国地方最大の大名にまでしました。


吉川家、小早川家の乗っ取り、尼子氏の内部分裂(新宮党の粛清)陶氏の内部分裂(江良房栄の粛清)、厳島の戦いでの桂元澄の内応など・・・元就の数々のはかりごとを成功させたのは情報操作が巧みであったからです。多くの間者(かんじゃ)を各地に派遣して情報を得ていたのでしょう。


元就は1571年に死去しますが、元就の次男元春、三男隆景は存命であり、このふたりはともに優秀で諜報活動も盛んに行っています。播磨を制圧した織田軍は毛利の領土である因幡国を支配下に治め備中にまで侵攻してきました。備中高松城の戦当時、毛利は存亡の危機に直面していたのです。


毛利にとって最大の関心事は、信長が備中に出陣してくるのか?それはいつごろか?どのくらいの兵力なのか?それらの情報を集めるために多くの間者を安土や京周辺に送り込んでいたと推測できます。


そんな時に本能寺の変が起こったのです!当然毛利方の間者もこの一大事を知らせるべく疾走したでしょうから、4日の午前中に毛利が本能寺の変を知っていたとしてもおかしくはないのです。むしろ知っていたと考えるほうが自然だと思われます。


ではなぜ秀吉と和睦したのでしょうか?播磨をめぐる戦いにおいて織田軍の軍事力、経済力を目の当たりにしてきた毛利では、真正面から織田と戦っては勝ち目はないと考えていたのでしょう。


また、何度も対戦した敵将秀吉の能力を高く評価していたのかもしれません。秀吉が信長の後継者になれるだけの器だと判断し、恩を売っておくことで後の交渉を有利に運ぶことができると考えたのではないでしょうか。


黒田官兵衛と安国寺恵瓊との間で何らかの密約があったのかもしれません。山崎の戦いで明智光秀に勝利した秀吉はその後毛利との領土交渉を行います。この交渉は数年かかりますが、担当したのは黒田官兵衛と安国寺恵瓊でした。


高松城攻めの時に締結した和睦条件は備中、美作、伯耆三カ国の割譲でしたが、最終的に割譲されたのは美作国だけで、備中国と伯耆国は一部の地域のみの割譲となり、毛利に有利な条件で決着したのです。


毛利は四国攻め、九州攻め、朝鮮の役など秀吉の天下統一事業に献身的な協力をします。秀吉政権下において毛利は重要な役割を担い120万石といわれる広大な領土を守りぬくのです。

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