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日本史
1932年(昭和7年)6月14日新島八重は夫とともに過ごした自宅で静かに息を引き取ります。新島八重の生涯は偏見との戦いでもありました。会津藩・・・
新島八重は夫である襄の死後茶道を本格的に学び始めます。裏千家十三代 圓能斎鉄中(えんのうさいてっちゅう)に入門し「宗竹 そうちく」の名を・・・
新島襄を失った八重は、日本赤十字社の社員となり社会奉仕の活動に取り組みます。日清、日露戦争では篤志看護婦(とくしかんごふ)として広島と大阪の病院で看護活動を行い・・・
同志社の創設者である新島襄は、その生涯において二回遺言(遺書)を書いています。1884年欧米諸国への視察旅行中と1890年1月21日です。一度目の遺言の内容は・・・
同志社を大学にするため活動していた新島襄は、滞在中の前橋で激しい腹痛に襲われます。心配した徳富蘇峰は静養するよう新島襄を説得します。大磯にある旅館「百足屋」で安静にしていた襄ですが、体調はしだいに悪化しとうとう・・・
京都の復興にとりくんできた山本覚馬と槇村正直ですが、同志社英学校をめぐる問題をきっかけに二人の間に溝が生じます。槇村によって京都府顧問を解雇された覚馬は、選挙で京都府の府会議員に選ばれると地方税の追徴を・・・
熊本バンドのひとり徳富猪一郎(とくとみいいちろう)のちの徳富蘇峰は、新島八重に対して悪感情を抱いていました。ある日、演説会に姿を現した八重に対し「鵺(ぬえ)のようだ」と罵倒し周囲の人を驚かせ・・・
同志社英学校設立以来、新島襄は多忙な毎日を送っていました。学校運営を巡るアメリカンボード・宣教師との考え方の違いや、生徒間の対立(熊本バンドとの対立)、運営資金の問題など問題が山積していたのです。そんなときに起きたのが自責の杖事件(じせきのつえじけん)事件です。
1876年に閉鎖となった熊本洋学校から同志社英学校に転入してきた生徒たちをのちに熊本バンド(くまもとばんど)と呼ぶようになります。熊本バンドには小崎弘道、金森通倫、伊勢時雄・・・
学校設立のため京都を訪れた新島襄は、槇村正直から山本覚馬を紹介されます。覚馬と面会した襄は覚馬がキリスト教の教えを理解していることに驚きました。覚馬はすでに「天道遡源 てんどうそげん」を読んでいて・・・
京都府顧問として京都の町の復興に取り組む山本覚馬は毎月30円(のちに45円)の給料を支給されていました。明治初期の1円は現在の価値で・・・
槇村正直(まきむらまさなお)と山本覚馬は活気を失った京都の復興に全力を注ぎます。そんなやさきに京都府にとって大きな問題が起こります。それが小野組転籍事件です。小野組は・・・