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鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)

第二次長州征伐の失敗により権威が失墜した幕府では15代将軍に慶喜が就任し巻き返しを画策します。一方、薩摩と長州では徳川政権を武力で倒す倒幕への流れが加速し朝廷に働きかけ倒幕の密勅を得ることに成功するのです。


これに対し慶喜は政権を朝廷に返上する大政奉還を行いここに徳川幕府は消滅することになったのです。王政復古の大号令が発せされ総裁、議定、参与からなる新政府の陣容が決定するのですが、その中には慶喜の名はなく新政権から締め出されたかたちになります。


この決定に対して幕府や会津藩、桑名藩の主戦派が憤慨し薩摩、長州と一触即発の状況になります。1868年1月3日 ついに両軍の間で戦端が開かれ鳥羽・伏見で激しい戦闘が繰り広げられるのです。


薩長軍5千に対し幕府軍は1万5千を超える兵力があり普通に考えれば負ける戦ではありませんでした。しかし、最新の武器を揃えた薩長軍に対し槍、刀、火縄銃中心の幕府軍は劣勢に立たされ苦戦を強いられます。


そんな中薩長軍に錦旗(錦の御旗)が翻るのです。この錦旗を見た慶喜は一気に戦意を失います。慶喜の生家は徳川御三家の水戸であり、水戸藩は尊王の思想が強い藩でもあったのです。朝敵になることを恐れた慶喜は容保と定敬を引きつれ大坂城を脱出し軍艦開陽丸で江戸へ逃げ帰ってしまったのです。


総大将と副将が戦場から離脱するという緊急事態!置き去りにされた藩士たちは憤慨、激高します!会津藩では130名を超える戦死者を出しながら退却を余儀なくされ江戸へと落ち延びて行くのです。


江戸城に戻った慶喜は新政府に対して恭順の意を示すため、主戦派である小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)を罷免し、替わりに勝海舟を陸軍総裁に任命し新政府との折衝に当たらせます。また、会津藩主松平容保に対しては江戸城への登城を禁止し、自らは江戸城を出て上野寛永寺で謹慎をするのです。


慶喜によって切り捨てられた形となった容保は失意のうちに会津に戻り、これから攻め込んでくるであろう新政府軍にどう対峙するのか対応を迫られることになります。

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