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日本史
直政の死 井伊家を継いだ直継(なおつぐ)と直孝(なおたか)。井伊直政は関ヶ原の傷が悪化して1602年に亡くなります。直政の跡を継いだのは正室の子である嫡男の直継ですが、家臣間の対立が表面化して直継の治世は安定しませんでした。譜代筆頭の井伊家で起こった内紛を処理するため徳川家康は・・・
井伊直政と関ヶ原の戦い。天下人豊臣秀吉が慶長3年8月(1598年)に病没します。幼い秀頼を補佐するかたちで、五大老と五奉行が政権運営を担います。五大老筆頭徳川家康の専横を非難した石田三成が挙兵すると、全国の大名は東西に分かれ関ヶ原で相対したのです。井伊直政は東軍の軍監として・・・
井伊直政の娘婿松平忠吉(まつだいらただよし)。井伊直政の寄騎 西郷正友の兄嫁が西郷局(さいごうのつぼね)で、のちに徳川家康の側室となり、徳川秀忠と松平忠吉を生みました。松平忠吉は直政の娘を正室にしているので、直政の娘婿でもあります。関ヶ原の戦いでは、
高瀬姫(たかせひめ)の夫 川手良則(かわてよしのり)。井伊直政の異母姉 高瀬姫は、今川の旧臣で徳川家康に臣従していた川手良則に嫁ぎます。武功により直政が上野国箕輪12万石を与えられると、川手は井伊一門として家老職につきます。関ヶ原の戦いでは・・・
箕輪城と高崎城 和田から高崎への改称。箕輪城に入った井伊直政は城下の整備を急ぎますが、徳川家康の命令により、箕輪城から和田城への移転が決まります。直政は白庵和尚の助言に従い「和田」という地名を「高崎」に変更しました。「成功高大」という故事にちなんだ「高崎」・・・
井伊直政上野国箕輪12万石。豊臣秀吉は小田原の後北条氏を討伐するため大軍を関東に派遣します。後北条氏の旧領は徳川家康に与えられ、直政は上野国箕輪12万石を拝領しました。直政は北条氏、今川氏の旧臣を新規に召し抱えると、部隊の再編成を行い・・・
井伊直政と豊臣秀吉 従五位下への叙任。旗本先手役となった直政は家康の期待に応え、小牧長久手の戦いで活躍をみせました。秀吉の妹旭姫を継室にした家康は上洛して秀吉に臣従します。直政を気に入った秀吉は従五位下を与えると、さらに侍従(じじゅう)に任官・・・
井伊直政と赤備え。天正壬午の乱の結果、徳川家康は三河、遠江、駿河に加え甲斐、信濃を領有する大大名になりました。家康は山県、原、土屋、一条らの武田旧臣と小幡ら西上野先方衆の部隊を直政に与えます。旗本先手役(はたもとせんてやく)に抜擢された直政は、1千を超える兵を指揮する侍大将に・・・
万千代の元服 井伊兵部少輔直政(いいひょうぶしょうゆうなおまさ)を名乗る。天正10年(1582年)8月井伊直虎が没すると、3カ月に万千代は元服をして、名を井伊兵部少輔直政とします。武田信玄の重臣であった「飯富兵部少輔虎昌 おぶひょうぶしょうゆうとらまさ」の武勇にあやかり・・・
井伊直虎の墓と菩提寺 妙雲寺(みょううんじ)。井伊直虎は天正10年(1582年)8月26日に死去したとされています。死因や亡くなったときの年齢は不明です。井伊家の菩提寺である龍潭寺(りょうたんじ)と、直虎の菩提寺である妙雲寺(みょううんじ)に位牌があります。直虎のお墓は・・・
万千代が伊賀越えの功績で孔雀の陣羽織を賜る。織田信長と徳川家康は天正10年(1582年)に武田領に侵攻して武田氏を滅ぼします。駿河一国を恩賞として与えられた家康は、お礼のため上洛して信長を訪ねますが、このとき本能寺の変が起こり信長は横死します。家康主従は一揆勢や落ち武者狩りが・・・
築山殿の首塚と墓 祐傳寺(ゆうでんじ)、八柱神社(やはしらじんじゃ)、西来院(せいらいいん)。徳川家康と正室築山殿の間に生まれた信康(のぶやす)は天正7年9月15日(1579年)二俣城で自刃しました。築山殿も佐鳴湖畔小藪で殺害されます。「太刀洗い(たちあらい)の池」と呼ばれる・・・