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井伊直政 関ヶ原の武功で近江国佐和山18万石に栄転

おんな城主直虎がもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識


慶長3年8月(1598年)豊臣秀吉が伏見城で息を引き取ります。

豊臣家の後継者である秀頼は6歳と幼く、政権は五大老と五奉行の合議制で運営されました。

慶長4年3月(1599年)五大老のひとり前田利家が病没すると、石田三成を敵視する武断派大名7名による三成襲撃事件が起こります。

毛利輝元の仲裁で事件はおさまりますが、三成は奉行を解任され領国の佐和山に蟄居となりました。

8月になると会津に戻っていた上杉景勝に謀反の噂が流れます。

家康は真相を確かめるべく景勝に上洛を命じますが、これを拒否したため上杉討伐が開始されます。

井伊直政もこの討伐軍に加わりますが、三成挙兵の一報が届くと家康は上杉討伐を中止して、上方に向け軍を反転したのです。

江戸に到着した家康は、福島正則ら豊臣恩顧の大名たちを先鋒部隊として先発させます。この部隊に井伊直政と本多忠勝が軍監として帯同しています。

先鋒隊は、三成(西軍)に属していた岐阜城の織田秀信(織田信忠の嫡男 幼名は三法師)を攻めこれを落とします。この知らせを聞いた家康は江戸を発ち東海道を進軍しました。

大垣城で籠城していた西軍は、家康の着陣を知ると城から出て関ヶ原に移動します。この動きを知った東軍も関ヶ原に進み両軍が対峙したのです。

東軍の先鋒は福島正則でしたが、井伊直政と娘婿の松平忠吉は少数の兵を率いて福島隊の前面に出ようとします。

これをみた福島隊の可児才蔵(かにさいぞう)が「先駆けは違反」だと咎めますが、直政は「忠吉殿の視察であり、先駆けではない」と反論します。

偵察を装った直政と忠吉は、福島隊の前面に出ると先駆けを行ったとされています。出し抜かれた福島隊が、西軍の宇喜多隊に発砲したことで戦端が開かれました。

序盤は西軍が優勢に進めますが、小早川秀秋の裏切りにより形勢が逆転します。大谷吉継が自害して大谷隊は壊滅!宇喜多、小西、石田隊も総崩れとなり戦場から離脱しました。

西軍で唯一戦場に残っていた島津隊は敵中突破を敢行します。これに気づいた直政と忠吉が追撃しますが、捨て身の島津隊に銃撃され直政が負傷しました。

直政は二箇所に傷を負ったとされますが、怪我の状態などは不明です。

戦いに勝利した家康は三成の居城佐和山城を攻撃します。この攻撃部隊には直政も軍監として参加しています。

佐和山城は関ヶ原本戦の3日後(慶長5年9月18日)に落城しました。また、西軍の拠点となっていた大垣城も23日に開城しています。この大垣城攻めでも直政が活躍しています。

直政はかねてから城将のひとりであった相良頼房(さがらよりふさ)に内応を働きかけていました。直政の誘いに応じた頼房が裏切ったことで大垣城は落ちたのです。

関ヶ原の恩賞により直政は近江国佐和山18万石に栄転します。また、忠吉も尾張国清洲52万石に大幅加増となりました。

≪ 井伊直政の娘婿松平忠吉(まつだいらただよし) |

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