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天下分け目!関が原の戦い

関ヶ原の戦い

小山評定で豊臣恩顧の大名を味方にした徳川家康は、本隊を息子秀忠に任せ、自分は旗本を中心にした3万の軍勢を率いて東海道を西上します。


先に出発した福島正則、池田輝政らに織田秀信(織田信長の孫・幼名三法師)が守る岐阜城を攻めさせ陥落させます。


一方、石田三成を中心とする西軍は、鳥居元忠が守る伏見城を落とし大垣城に入ります。いくつかの小競り合いがあったあと、両軍が関が原に集結!

■東軍
徳川家康 30000
浅野幸長 6500
福島正則 6000
黒田長政 5400
細川忠興 5000
池田輝政 4500
井伊直政 3600
松平忠吉 3000
加藤嘉明 3000
田中吉政 3000
京極高知 3000
筒井定次 2800
藤堂高虎 2400
寺沢広高 2400
山内一豊 2000
生駒一正 1800
古田重勝 1200
金森長近 1100
有馬豊氏 900
本多忠勝 500
織田有楽 450


■西軍
石田三成 6000
宇喜多秀家 17000
小早川秀秋 15000
毛利秀元 15000
長宗我部盛親 6600
小西行長 4000
吉川広家 3000
大谷吉治 2500
小川祐忠 2000
安国寺恵瓊 1800
大谷吉継 1500
島津義弘・豊久 1500
長束正家 1500
木下頼継 1000
脇坂安治 1000
赤座直保 600
朽木元綱 600


東軍は、徳川家康が桃配山に陣を構え、最前線には福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明、藤堂高虎ら豊臣恩顧の大名が布陣します。


一方、西軍は石田三成が笹尾山、宇喜多秀家は天満山、小早川秀秋は松尾山、毛利秀元、長宗我部盛親、安国寺恵瓊は南宮山に陣取り東軍を囲む形で陣形を整えます。


濃い霧のため、両軍どちらも身動きのとれないまま対峙しますが、徳川家康の四男松平忠吉とその後見役である井伊直政が、東軍の先鋒 福島正則隊の横を抜け宇喜田秀家隊に発砲!抜け駆けは軍法違反であり、福島正則は烈火のごとく怒ります!


井伊直政は、この戦は何としてでも徳川家の手で開戦しなくてはならないという思いが強く、このような行動にでたのでした。先鋒の名誉を取られた福島正則は、宇喜田隊に突撃をしかけ、ここに関が原の戦いの火蓋が切られました。


東軍先鋒の福島正則は、宇喜田秀家隊と正面から激突! 西軍本隊である石田三成の陣には、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明隊が怒涛の攻撃をしかけます。


三成の盟友 大谷吉継は、藤堂高虎、京極高知を相手に奮戦!、小西行長は田中吉政、筒井定次と互角の戦いを繰り広げていました。


小西行長は肥後の南半分を領有する大名ですが、北半分を領有する加藤清正が本国に残っていたため、清正の侵攻に備え主力を肥後に残さざるを得ず、急ごしらえの軍勢で参戦していました。


そのため、家康が得意の野戦ではなく大坂城での籠城戦を主張しましたが、聞き入れられず士気がいまひとつであったようですが、その割にはよく持ちこたえています。


総兵力では東軍に勝る西軍でしたが、実際に戦っているのは石田、宇喜田、小西、大谷の軍勢のみで、南宮山の毛利秀元、長宗我部盛親、安国寺恵瓊は山麓に布陣している吉川広家が動かないため、戦に参加することができずにいます。


吉川広家は家康と内通していて、毛利の本領安堵を承認されていたためこの戦に参戦する気はまったくありません。もし、南宮山の西軍25000以上が家康本隊に攻めかかっていたら西軍が勝つ可能性は十分にありました。


松尾山の小早川秀秋は、東西両陣営どちらからも味方になるよう誘われていましたが、叔母である北政所から家康に味方して家名の安泰をはかるようにとの指示が出されていました。内心は家康につく気でいましたが、西軍の思わぬ善戦でその気持ちが揺らいでいました。


西軍は一部の兵しか戦闘していないにもかかわらず、東軍と互角以上の戦いを繰り広げていて、これをチャンスとみた石田三成は総攻撃の狼煙をあげ、南宮山の毛利と松尾山の小早川に総攻撃の合図を送ります。


しかし、両陣営とも動くことはなく、逆に家康の威嚇射撃を受けた松尾山の小早川秀秋が寝返り、大谷隊めがけて突進してきたのです。


小早川の裏切りを予測して対策をとっていた大谷吉継は、500の兵で15000の小早川を迎え撃ち奮闘するのですが、小早川の裏切りに同調した小川祐忠、脇坂安治、赤座直保、朽木元綱らの軍勢もが攻めかかってきたため、ついに力尽き大谷吉継は自刃して果てます。


大谷隊の陣が崩れると、続いて小西隊、宇喜田隊も崩壊!戦意を失った西軍の兵が次々に戦場から逃げて行きます。石田隊は最後まで踏ん張り戦っていましたが、勇将の島左近が討たれ三成も再起をかけ伊吹山に逃れていきます。


最後まで動かなかった島津隊は東軍からの総攻撃を受けたため、死中に活を求め敵中突破を敢行!島津義弘を守りながら、島津豊久ら家臣が次々に討死をして、薩摩に戻ったのはわずか80名ほどであったそうです。


午前8時に始まった戦いは午後4時ごろには終わりをむかえ、この天下分け目の大戦はおよそ8時間という短時間で決着がつきました。

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