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井伊直政の出世は瀬名(築山殿)のおかげ?

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徳川家康の天下取りを支えた家臣の中で、特に功績のあった四人の重臣を「徳川四天王」と呼んでいます。


酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政の四人ですが、井伊直政以外の三人は家康がまだ松平姓であった頃から従っていた古参の家臣たちです。


江戸時代に入ると古参の三家を差し置いて、井伊家の彦根藩は35万石を領有する譜代筆頭となります。なぜ遠江の国人領主であった井伊氏がこれほどの大出世を遂げたのでしょうか?


徳川家康の正室瀬名(築山殿)が井伊家出身なので優遇されたとする説があります。築山殿が本当に井伊家の出身であればありそうな話しですが、築山殿の出自については確実な証拠がないのでどちらともいえません。


井伊直政が家康の寵童だったとする説もありますが、直政の出世を妬んだ者の讒言とも言えます。


結局のところはっきりした理由はわかりませんが、やはり戦場での抜群の働きが評価されたのだと思います。戦乱の世ですから、武功をあげれば出世しますし周囲も納得します。


また、直政は同じ四天王の本多忠勝や榊原康政よりも一回りも年が下なので、徳川家臣団次世代のリーダーとしての期待もあったのでしょう。


直政は関ヶ原の傷が原因で1602年亡くなりますが、子の直孝が大坂夏の陣 八尾・若江の戦いで木村重成、山口弘定を討取る手柄をあげます。


秀忠、家光の信頼を得た直孝はその後も幕府の重鎮として幕政に関与しました。


直政、直孝とニ代続けて活躍を見せたことで将軍家の信頼を勝ち取った井伊家は、一度も国替をされずに彦根藩主として存続しました。

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