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今川軍の侵攻に備え砦(丹下、善照寺、中島、丸根、鷲津)を築く織田信長

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桶狭間の戦い 信長が築いた付城(丹下砦、善照寺砦、中島砦、丸根砦、鷲津砦)
*桶狭間の戦い 信長が築いた丹下砦、善照寺砦、中嶋砦、丸根砦、鷲津砦

山口教継の調略によって三河との国境に位置する沓掛城と、戦略上の要地である大高城が今川の手に落ちます。


これに対し織田信長は、今川方の前線基地である大高城と鳴海城の周囲にいくつもの砦(付城)を築き連絡網を断つ対抗策をとります。


「信長公記」の記述によると、信長は鳴海城から二十町離れた丹下にあった古屋敷を整備して砦(丹下砦)を築き、水野帯刀(みずのたてわき)、山口守孝(やまぐちもりたか)らに守備を命じます。


さらに鳴海城の東にあった善照寺を改修して砦(善照寺砦)とし、佐久間信盛(さくまのぶもり)、信直(のぶなお)兄弟を置くと、南に位置する中島村にも砦(中嶋砦)を築き梶川高秀(かじかわたかひで)に守らせました。


また、鳴海城と大高城の連携を断つために、丸根山と鷲津山にそれぞれ砦を築き、丸根砦には佐久間盛重(さくまもりしげ)を、鷲津砦には織田秀敏(おだひでとし)と飯尾定宗(いのおさだむね)、尚清(ひさきよ)父子を配置しました。


「信長公記」に登場する砦は上記の5つですが、他の史料には大高城の南側に向山砦、正光寺砦、氷上山砦を築いたことが記されています。


この3つの砦が実在したのかについてはよくわかっていないのですが、存在しなかった場合には大高城の南側ががら空きとなってしまうため、実在したとする説が根強くあります。

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