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桶狭間の戦い 「信長公記」の描写と問題点

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桶狭間の戦い 信長公記 織田信長と今川義元の進軍ルート
*桶狭間の戦い 織田信長と今川義元の進軍ルート

私たちがよく知っている桶狭間の戦いの描写は、太田牛一(おおたぎゅういち)の「信長公記」、小瀬甫庵(おぜほあん)の「信長記」がベースになっています。


太田牛一の「信長公記」も元々は「信長記」でしたが、区別するために「信長公記」と呼ばれるようになりました。


「信長公記」は織田信長の家臣であった太田牛一が記録した信長の一代記です。全16巻で構成され、客観的な記述が多く信長の生涯を研究する上での一級史料となっています。


「信長記」は儒医(儒学者、医者)の小瀬甫庵が太田牛一の「信長公記」をベースにして、独自の調査や解釈を加えて出版した書物で、こちらは全15巻で構成されています。


読み物としては面白く江戸時代に広く読まれましたが、脚色が強く研究者からの評判は高くありません。


ここでは太田牛一の「信長公記」の中に描かれている桶狭間の戦いの様子を紹介しながら、いくつかの問題点をあげてみます。


天文二十一年五月十七日、今川義元は沓掛城に着陣します。


丸根砦の佐久間盛重(さくまもりしげ)と鷲津砦の織田秀敏(おだひでとし)は、今川軍が十八日夜に大高城に兵糧を補給し、十九日朝には砦を攻撃するという情報を得ます。


両将は十八日の夕刻にこの情報を織田信長へ知らせます。これを聞いた信長は家老衆と雑談しただけで作戦に関する指示を出さず「夜も遅いから家に帰るように」と帰宅を命じます。


家老衆は「運の尽きる時には知恵の鏡も曇るというが、今がその時だ」と嘲笑しそれぞれの自宅に帰りました。


夜が明けると、佐久間盛重、織田秀敏から「攻撃を受けている」との報告が届きます。信長は「敦盛」を舞うと「法螺貝を吹け、具足をよこせ」と命じ鎧をつけさせ、立ったまま食事を済ませると兜をかぶり出陣しました。


信長に従ったのはわずか五人の小姓だけで、熱田まで三里(約12km)を駆け抜けると、辰の刻(午前8時頃)に東の空に煙が見え丸根と鷲津の砦が陥落したことを知ります。


この時点で信長に追いついたのは騎馬六騎と雑兵二百人ほどでした。信長は熱田から丹下砦に移動すると、さらに善照寺砦へ向かいここで将兵の到着を待ちます。


今川義元率いる四万五千の兵は桶狭間山で休息をとっていました。午の刻(正午頃)義元は戌亥(北西)に向かって布陣すると、丸根、鷲津両砦を落としたことに満足し「これに過ぎるものはない」と言って謡を三番うたいます。


今川の先陣をつとめ、大高城に兵糧を運んだ家康は、大高城で人馬に休息をとらせていました。


信長の善照寺砦到着を知った佐々政次(さっさまさつぐ)、千秋季忠(せんしゅうすえただ)は兵三百を率いて今川勢に攻撃を仕掛けますが、敵の槍を受け千秋季忠、佐々政次を始め五十騎ほどが討たれます。


これを見た義元は「義元の矛先には天魔鬼神もかなうまい。心地が良い」と悦び悠々と謡をうたいました。


信長は中島砦に移動しますが、このときの兵力は二千に満たないものでした。


信長は兵に向かって「皆よく聞けよ。今川軍は宵に食事をとり夜通し行軍して大高城に兵糧を入れ、鷲津、丸根に手こずり辛労し疲れている。われらは新手の兵である。少数だからといって恐れることはない。運は天にあるということを知らぬか。敵が掛かってきたら引き、敵が退けば追い、何としても敵を追い崩す。分捕りはするな。打ち捨てよ。勝利すれば戦いに参加した者は末代までの高名となる。ひたすら励め」


と言い聞かせているところに、前田又左衛門、毛利河内、毛利十郎、木下雅楽助、中川金右衛門、佐久間弥太郎、森小介、安食弥太郎、魚住隼人が敵の首を持ってきます。信長はこの者たちにも先程の話しを言い聞かせました。


山際まで進軍した時、突然雨が降り出します。石か氷を投げつけたような激しい雨は味方の背後から降りかかり、敵を激しく打ち付けました。


沓掛の峠の二抱え、三抱もある楠の木が激しい風雨で東に倒れます。「これは熱田明神のご加護だ」と言い、空が晴れたのを見た信長は槍を取り、大きな声で「それ、掛かれ」と攻撃の命令を下します。


黒煙を立てて襲いかかる信長軍を見た敵は、水をまいたように後方に崩れ、弓、槍、鉄砲、のぼり、さし物などが乱れ、義元の輿もその場に捨てられます。


未の刻(午後2時頃)信長は「義元の旗本はあそこだ!掛かれ!」と兵に命じます。三百騎ほどの兵が真円になって義元を守っていましたが、二度、三度、四度、五度と信長軍が攻めかかると、次第に減り五十騎ほどになります。


信長も下馬して若武者と先を争うように敵を突き伏せ、突き倒し、 気負い立つ若武者たちは敵に乱れ掛かり、しのぎを削り、鍔(つば)を割り、火花を散らし、火焔(かえん)を降らす。


信長の馬廻り衆や小姓衆にも多くの死傷者が出るほどの乱戦となります。服部小平太が義元に打ち掛かり膝を切られ倒れるも、毛利新介が義元を組み伏せついに首を取りました。


以上が「信長公記」に記載されている桶狭間の戦いの様子です。太田牛一が桶狭間の戦いに参戦したのかは不明ですが、信長たちが義元の旗本に襲い掛かるシーンはなかなかの迫力です。


太田牛一が「信長公記」を残してくれたことで、私たちは桶狭間の戦いの様子を知ることができる訳ですが、研究者によっていくつかの問題点が指摘されています。

1、桶狭間の戦いの年が違う

2、信長の兵力を二千としている

3、信長軍が中島砦を出てから義元の本陣を襲撃するまでの過程が省かれている


1の桶狭間の戦いの年ですが、「信長公記」では天文二十一年(1552年)としています。実際には永禄三年(1560年)に行われたので、8年もの開きがあります。


太田牛一の勘違いだとする説もありますが、信長の名前を天下に知らしめた重要な戦いの年を間違えるとも思えません。


「信長公記」は首巻と15巻の全16巻で構成され、桶狭間の戦いは首巻に記載されています。この首巻は写本しか現存していないため、太田牛一の原本を写した人物が間違えたのではないかとの指摘があります。


その可能性もありますが、原本が見つかるか、永禄三年と記載された新たな写本が発見されない限りこれを証明することはできません。


2の信長の兵力ですが、「信長公記」では二千にも満たないとしています。信長は桶狭間の前年に尾張をほぼ統一しています。


服従して間もない尾張上四郡の統治はまだ不安定であり、今川に侵略された地域などもあるため、尾張の武将たちすべてが信長の下知に従う訳ではありませんが、尾張の石高や信長の経済力を考えれば、信長が動員できる兵力は1万近くいたとする説もあります。


信長に敵対する美濃の齋藤氏への抑えや、要所に配置する兵を考慮しても二千は少な過ぎます。この二千という数字は信長の旗本(馬廻り衆、小姓衆)だけであり、「信長公記」の桶狭間の戦いの描写に出てこない柴田勝家、森可成、河尻秀隆、池田恒興、丹羽長秀などの武将たちがどこに居たのかが気になります。


彼らが信長軍の主力部隊もしくは別働隊を率いていたとも考えられます。「信長公記」は意図的に信長の兵力を少なく描写して、信長の活躍をより強調したのでは?との推測をすることもできます。


3の中嶋砦を出てからの信長の進軍ルートが不明だという点が「信長公記」最大の問題点です。


「信長公記」では二千にも満たない信長が四万五千の義元を討取っています。四万五千といえば大変な大軍です。東京ドームの満員が4万5千前後ですから、あのぐらいの数の兵がいたわけです。


中嶋砦から義元の本陣までの間にどれぐらいの兵がどのように布陣していたのかが不明であり、信長が義元の本陣にどのようなルートで接近したのかも省かれています。


この肝心な部分が欠落していることで、後世の研究者たちがいろいろな説を展開することになります。


通説となった「迂回奇襲説」、この通説に真っ向から反対意見を展開した「正面攻撃説」さらに新たな「迂回奇襲説」や「乱取り説」などが発表されてきました。


どの説も納得できる部分と、疑問に思う部分があり優劣をつけることはできません。今後新たな史料が発見されればまた違った展開になるかもしれませんが、今のところ混沌とした状況です。

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