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徳川家康(とくがわいえやす)徹底解説

西三河の小大名安城松平家の嫡男として誕生した徳川家康は戦乱の時代を生き抜き、やがて征夷大将軍となり幕府を開きました。 戦国の世を終わらせ260年にもわたる平和な時代の礎を築いた徳川家康とはどのような人物だったのでしょうか? 徳川家(松平家)の出自から領国の統治、合戦まで、徳川家康の生涯を徹底解説していきます。

1、三河松平氏 とは

三河松平氏歴代当主
*三河松平氏歴代当主

徳川家康は西三河で勢力を持っていた松平氏の一族です。

松平氏の初代親氏(ちかうじ)は諸国を巡る時宗の僧であったようですが、三河国賀茂郡松平郷の松平太郎左衛門尉(まつだいらたろうざえもんのじょう)のもとに身を寄せ婿入りしたとされています。

親氏の跡は、二代泰親(やすちか)、三代信光(のぶみつ)と続きますが、泰親は親氏の子もしくは弟だとされ、信光は泰親の子、もしくは親氏の子だと されています。

三代信光は長命でたくさんの子を設けたため、松平氏はいくつかの系統に分かれます。惣領は信光の長男親長(ちかなが)が継いだようですが、何らかの理由で信光の三男 親忠(ちかただ)の系統に移ります。この親忠の系統は安城松平(あんじょうまつだいら)と呼ばれ、家康はこの安城松平家の出身です。

四代親忠、五代長親(ながちか)もしくは長忠(ながただ)、六代信忠(のぶただ)と続き、七代清康(きよやす)が家康の祖父にあたります。

2、十四松平、十六松平、十八松平

三河松平氏系図(みかわまつだいらしけいず)
*三河松平氏系図・十四松平、十六松平、十八松平

三河松平氏の三代信光は当時としては珍しい長命(85歳で没)で多くの子を残しました。信光は子供たちを要地に配置して松平氏の支配力強化に努めます。 信光以降、西三河には多くの松平氏が分立しますが、それらを総称して十四松平、十六松平、十八松平と呼んでいます。

安城(あんじょう)、岩津(いわづ)、長沢(ながさわ)、能見(のうみ)、形原(かたのはら)、大草(おおぐさ)、竹谷(たけのや)、五井(ごい)、深溝(ふこうず)、大給(おぎゅう)、 滝脇(たきわき)、福釜(ふかま)、桜井(さくらい)、東条(とうじょう)、藤井(ふじい)、宮石(みやいし)、三木(みつき)、鵜殿(うどの)。

3、松平清康の三河統一と守山崩れ

西三河松平一門勢力図
*西三河松平一門分布図

三河松平氏の領土は七代清康の時代に飛躍的に拡大しました。家康の祖父にあたる清康は1511年に誕生し、わずか13歳で家督を継いだとされています。 少年の清康が家督を継いだ経緯について「三河物語」では、清康の父で六代当主であった信忠が無慈悲で、一門や譜代家臣から見放されてしまった ためだとしています。

当時の三河松平氏は一族の内紛(桜井松平氏と安城松平氏の対立)が続いていてまとまりに欠けていました。信忠には一族を統率できる力がないと判断され、一門や家臣から家督を次郎三郎(清康)に譲るよう 迫られたようです。隠居した信忠は大浜に移り享禄4年(1531年)に亡くなります。

家督を継承した清康は、一族内の対立を鎮め西三河での支配を確固たるものにすると、岡崎城を築き東三河へと進出します。

牧野氏の吉田城を攻めこれを落とすと、戸田氏、設楽氏、菅沼氏、奥平氏、西郷氏など東三河の国衆を攻略して傘下に収めます。 三河国をほぼ統一した清康は国内の整備を行い、1535年には尾張へ兵を進めます。

清康が尾張に侵攻した理由は諸説ありますが、一族の松平信定(まつだいらのぶさだ)を討つため、もしくは 当時尾張で力をつけていた織田信秀(おだのぶひで、信長の父)を攻めるためだと考えられています。 清康は甲斐の武田氏や美濃の国衆などと事前に連絡を取り合い出兵したようです。

尾張の守山に着陣した清康ですが、その清康が家臣の阿部弥七郎(あべやしちろう)に斬殺されるという大事件が起こります。 事の発端は弥七郎の父定吉(さだよし)が敵方に内通しているという噂でした。

身に覚えのない定吉でしたが、万が一自分が謀反の疑いで誅殺されたら汚名をそそぐよう息子の弥七郎に言い聞かせていたのです。 そのような状況の中、陣中で馬が暴れます。

馬を取り押さえるよう命じた清康ですが、この騒ぎを父が討たれたと勘違いした弥七郎が清康を切りつけたのです。清康は絶命し、弥七郎は植村新六郎によって討たれました。

遠征の継続が困難となった松平軍は尾張から撤退して三河に引き返します。この事件を守山崩れ(もりやまくずれ)といいます。

ただし、清康の三河統一には懐疑的な意見も多く、清康に関する史料もほとんど残っていないことから江戸時代に創作された可能性もあります。 三河統一がなければ清康が大軍を率いて尾張に攻め込めるはずもなく、守山を訪れたのは軍事的な理由ではなく、政治、外交上の理由だとする説もあります。

4、今川氏への従属と徳川家康の誕生

清康を失った松平家では、嫡男の千松丸(せんまつまる)のちの広忠(ひろただ)がまだ10歳と幼く、とうてい領国を統治できる状況ではありませんでした。 一族の実力者である桜井松平信定の発言力が強まりますが、信定は野心家で織田と通じているとの噂もあり信用のおけない人物だったのです。

千松丸の身を案じた家臣たちは密かに千松丸を逃がします。千松丸のいない岡崎城では、信定が千松丸の叔父にあたる信孝(のぶたか 信孝は清康の子)に 城を任せました。

岡崎を出た千松丸はしばらく伊勢で匿われ、遠江を経て駿河の今川氏を頼ります。今川という後ろ盾を得た千松丸は、信孝や千松丸派の家臣らの支援を受け、 1537年に岡崎に戻り家督を継いだのです。

「徳川実紀」では信定を野心家で信用のおけない人物として描いていますが、このころの松平氏は一枚岩ではなく、織田に心寄せる者がいる一方で、 今川を支持する者もいて一族内での勢力争いが展開されていたと推測されます。

織田を支持していたのが桜井松平氏の信定であり、信定に反発する勢力が今川の力を借りて勢力を挽回し、千松丸(広忠)を擁立したと考えられます。

三河松平氏八代当主となった広忠は水野忠政(みずのただまさ)の娘於大の方(おだいのかた)を妻に迎えると、1543年に嫡男の竹千代(たけちよ)のちの徳川家康が誕生します。

跡継ぎの誕生にわく松平家でしたが、於大の方の父水野忠政が亡くなると、家督を継いだ信元(のぶもと)が、今川から織田に寝返るという重大事件が起こります。

これを知った広忠は今川への忠誠を示すために於大の方を離縁して水野家に送り返したため、竹千代はわずか3歳で母と離れることになったのです。

5、織田の人質

水野信元を味方に引き入れ勢いづいた織田信秀は、西三河の国衆に調略を仕掛けると満を持して松平領に攻め込んできました。 織田軍の猛攻により安城城が落ちると、松平一族の中からも織田に寝返る者があらわれ西三河は混乱します。

単独では織田に対抗できないと考えた広忠は今川義元に救援を依頼しました。義元は兵を派遣する見返りとして竹千代を人質に出すよう命じます。 広忠は6歳の竹千代を駿府に送ることを決めると、石川数正(いしかわかずまさ)、天野康景(あまのやすかげ)、平岩親吉(ひらいわちかよし)ら 28名のお伴の者をつけ岡崎から送り出したのです。

岡崎から駿府へ向かう一行は田原に到着します。この地を治めていたのは田原城主の戸田康光(とだやすみつ)ですが、この人物は広忠の義理の父にあたります。 於大の方を離縁した広忠は戸田康光の娘と再婚していました。

康光は「陸路は危険だから駿府まで船で送ります」と言葉巧みに竹千代一行を誘い乗船させると、尾張へと送ってしまったのです。 竹千代は身内の裏切りによって敵である織田の人質となります。

戸田氏がなぜこのような行動に出たのかは不明ですが、「松平記」や「三河物語」には、信秀から報酬として銭(百貫、もしくは千貫)を受け取った と記されています。

竹千代を手に入れた織田信秀は広忠の元に使者を送り織田につくよう迫りますが、広忠はこの要求を突き返し今川への忠誠を示したのです。 信秀は竹千代の命を奪うことはせずに、人質として国内に置くことにします。

一方、人質を織田に奪われた今川では太原雪斎が兵を率いて戸田氏を攻め、田原城を落としました。

このように、通説では戸田氏の裏切りによって竹千代が織田に奪われたことになっていますが、織田軍の攻撃を受けた広忠が信秀に降伏した結果 、嫡男の竹千代を人質に差し出したとする研究結果が発表されています。

6、小豆坂合戦と広忠の死

義元の支援を受けた広忠ですが、一族や家臣間の対立が起こり対応に苦慮します。 広忠の岡崎帰還に協力した信孝ですが、その後は専横が目立つようになり家臣との間に対立が生じていました。 広忠は重臣たちの意見を受け入れやむなく信孝を失脚させるのです。

また、松平忠倫(ただみち)や酒井忠尚(さかいただなお)など、織田に近い家臣たちの存在も対立の火種になっていました。 広忠は松平忠倫(ただみち)に刺客を放ちこれを殺害すると、織田信秀の侵攻に備え一族内の引き締めをはかります。

今川義元は信秀の勢力を削ぐため、太原雪斎を西三河に派遣します。 数千の兵を率いた雪斎が三河に入ると、これを知った信秀も清州から出陣して安城城に 着陣しました。翌日には両軍が激突して激しい戦いが展開されます。今川勢が多少優勢な戦況であったようですが勝敗はつかず、信秀は信広(のぶひろ) を安城城に残し兵を引いたのです(小豆坂合戦)

今川の加勢によって何とか織田の軍勢を追い払った広忠ですが、今度は信孝が攻撃を仕掛けてきました。 失脚後、織田方となっていた信孝が形勢逆転をはかり岡崎に侵攻したのです。 広忠は耳取縄手の戦いで信孝を討取りますが、翌年に突如亡くなります。

広忠の死については家臣の岩松八弥(いわまつはちや)に刺殺されたとする説が通説となっていますが、「松平記」や「三河物語」には病死と記されています。 24歳で没した広忠は大樹寺(だいじゅじ)に葬られました。

7、今川の人質

広忠の死を知った今川義元は太原雪斎を三河に送り岡崎城を接収します。跡継ぎの竹千代が織田の人質となっている現状を考え、安城松平氏が織田に寝返らないための 迅速な行動でした。

三河での勢力を保持したい義元は太原雪斎に命じて安城城の攻略にとりかかります。今川軍の攻撃に城の守りを任されていた織田信広は激しく抵抗をしますが 多勢に無勢!城は落城し信広は捕虜となります。

雪斎は清州に使者を送り竹千代と信広の人質交換を申し入れこれを実現させました。竹千代の帰国にわく岡崎でしたが、義元は竹千代がまだ幼いことを理由に岡崎に留まることを 許しませんでした。

織田の人質から解放された竹千代は、今度は今川の人質として駿府に送られたのです。今川の人質となった竹千代は駿府で過ごしたとされていますが、駿府ではなく 吉田に留め置かれたとする説もあります。

竹千代は14歳で元服をしますが、このときの烏帽子親が今川義元で、関口親永(せきぐちちかなが)が理髪を行ったとされています。竹千代は義元の元の字を 与えられ、名を元信(もとのぶ)と改めました。

元服をした元信は関口親永の娘瀬名姫を妻に迎え今川家との結びつきを強めると、岡崎への一時帰国が許され、先祖の墓参りと父の追善供養を行います。 駿府に戻った元信は名を元康(もとやす)と改めます。「康」の字は祖父清康の名からとったとされ、安城松平氏の当主としての自覚や決意をうかがい知ることが できます。

元康の初陣は1558年の寺部城攻めです。今川から離反した鈴木重教の寺部城攻略を任された元康は兵を巧みに指揮します。元康の姿を見た岡崎の家臣たちは涙を流し 喜んだとされています。義元は元康の初陣を評価して山中300貫の領地を返し、腰刀を与えました。

8、桶狭間の戦いと今川からの独立

1560年今川義元が尾張に侵攻します。数年にわたり尾張に調略を仕掛けていた義元は、山口父子、近藤景春を織田から離反させることに成功すると、 自ら大軍を率いて出陣しました。

東海道を進む今川本隊は、岡崎、知立を通り、沓掛城に着陣します。一方、先陣の元康は大高城に兵糧を運ぶ役割を担いました。大高城周辺には 丸根、鷲津など織田方の砦が築かれ厳重な警戒が敷かれていました。

敵中を突破して無事に大高城に兵糧を運んだ元康はそのまま城中にとどまり、翌日には丸根砦を攻撃しています。丸根、鷲津の両砦を攻め落としたとの 報告を受けた義元は気をよくして戦勝を祝い謡をうたうと、桶狭間山で兵に休息をとらせました。

そこに信長率いる二千の兵が襲い掛かります!これまでの通説では迂回した信長軍が太子ヶ根から背後に周り込み、窪地に展開していた義元の本隊目がけ奇襲 攻撃をしかけたとされてきました。

しかし、歴史家の藤本さんが太田牛一の「信長公記」を元に信長は迂回などはせずに正面から今川に攻撃を仕掛けたとする「正面攻撃説」を発表したことで、奇襲攻撃説の信頼性が揺らぎます。 その後もいくつかの説が発表され桶狭間の戦いに関する研究が盛んになりました。

信長の襲撃を受けた今川軍は崩壊し、総大将の義元が討たれるという結果になります。大高城の守備を任されていた元康は桶狭間の戦いに巻き込まれることなく 兵力を温存することができました。

織田方となっていた水野信元(元康の伯父)は、大高城の元康に使者を派遣して義元の討死を知らせます。信元は信長軍が大高城を取り囲む前に脱出するよう 助言したとされていますが、元康はすぐには行動せずに情報収集を行い、今川軍の敗戦を確認してから大高城を出たのです。

翌日、三河に戻ることができた元康は大樹寺に入ると、今川の兵が岡崎城から出たことを確認してから入城しました。

9、今川からの独立と清州同盟

桶狭間の戦いで今川が敗れ義元が討死するという思いがけない出来事の結果、幸運にも岡崎に戻ることができた元康は今川からの独立を目指し行動を開始します。 いつから独立を画策したのかについては諸説ありますが、元康が東三河へ侵攻したのが永禄4年4月(1561年)なので、この頃に今川からの離反を決めた とする説が通説となっています。

岡崎に戻った元康は西三河に点在する松平一族の結束をはかり地盤を固めると、尾張との国境に侵攻して伯父の水野信元の領地である刈谷城、小河城付近で 戦いを行っています。水野氏との抗争を続けながら、西三河の国衆をまとめ1561年の早い段階には西三河をほぼ掌中に収めます。

西三河に比べると東三河は今川の影響力が強く、吉田城の小原氏、牛久保城の牧野氏、上之郷城の鵜殿氏、田原城の朝比奈氏など、今川に忠誠を誓う勢力が健在でした。 元康が牛久保城に攻撃を仕掛けたことで、今川からの離反が明確になります。

今川氏真は元康の裏切りを非難しますが元康の勢いは止まらず、上之郷城を攻め城主の鵜殿長照を討取り、長照の息子二人を生け捕りにしました。 長照の子と駿府で人質にされていた元康の妻子の交換交渉が成立して、瀬名姫、竹千代(のちの信康)、亀姫が元康の元に戻ります。

元康が東三河へ侵攻することができた背景には織田信長との同盟があります。元康と信長の同盟時期についてはよくわかっていません。永禄5年1月(1562年)に元康が清州を訪れ 信長と面会したとする逸話が残されています。これを清州同盟と呼んでいますが、信頼できる史料には元康の清州訪問は記載されていません。

永禄6年(1563年)に元康の嫡男竹千代(のちの信康)と信長の娘五徳(ごとく)が婚約しているので、それ以前に軍事同盟が結ばれていたことは確かです。 元康は桶狭間の戦い後、およそ半年間伯父の水野信元と抗争を行っています。信元は織田方なので、戦いを続けている状態での同盟はありえません。 信元との戦いが終結した永禄4年1月~3月に信長との同盟が締結されたのではと考えられています。

この同盟は両家にとって大きなメリットがありました。背後の心配がなくなった信長は美濃へ、元康は東三河へとそれぞれ侵攻していったのです。

竹千代と五徳の縁談を成立させた元康は名を家康に改名します。元康の「元」は今川義元から受けた偏諱(へんき)なので、改名することで 今川からの独立を宣言したのです。

10、三河一向一揆

三河一向一揆・上宮寺、本証寺
*三河一向一揆

桶狭間の戦い以降「西三河の統一」「信長との同盟・縁組」「東三河への侵攻」と独立への道を着実に歩んできた家康の前に大きな壁が立ちふさがります。 若き日の家康にとって最大のピンチとなった三河一向一揆です。

一向一揆とは一向宗(浄土真宗本願寺派)の信徒によって起こされる一揆のことです。三河は浄土真宗の布教がさかんな地域で信徒の数も多かったようです。

浄土真宗にはいくつかの宗派がありますが、15世紀後半に本願寺派の蓮如が登場すると、三河で積極的な布教活動を行い多くの信徒を獲得します。家康の時代には家臣の中にも多くの本願寺派門徒がいたため、一揆が長引く要因となりました。

三河で一向一揆が起こった時期は諸説ありますが、家康が東三河の今川勢を追い込んでいた永禄6年~翌7年のおよそ半年間だとする説が有力になっています。 一揆が起こったきっかけですが「松平記」では、家康の家臣が一向宗の上宮寺(じょうぐうじ)に対し強引な兵糧米の徴収を行い、これに反発した寺院側が結束して 一揆を起こしたと説明しています。また「三河物語」では、本証寺(ほんしょうじ)の者を家康の家臣が逮捕したため一揆に発展したとしています。

どちらも、寺院が有していた不入の権を家康側が侵害したことが一揆の原因だとしています。 三河の統一を目指す家康にとって、自分の領国内に独立した勢力が存在することは脅威であり、これを排除しようとしたとする説もあります。

三河一向一揆の発端については史料が少ないのでよくわかっていないのですが、一揆は広がりを見せ家康を苦しめました。 松平一族や、本多、酒井、石川、渡辺、鳥居、内藤など有力家臣の中からも信仰上の理由から一揆方につく者があらわれます。 さらに、家康の統治に不満を持っていた国衆や土豪なども一揆に加わったことで拡大していったのです。

一向宗門徒の結束力は強く各地で激戦が展開されますが、一向宗側には一揆を指導する有力者がおらず戦術面で劣っていました。 さらに、家康が戦場に現れると、一向宗側となっていた家康の家臣たちは戦わず逃げ出したとされています。

信仰上の理由で一揆側についたものの、主君と戦うにはためらいがあったのでしょう。戦況はしだいに家康優勢となり、さらに水野信元が兵を率いて家康を救援したため一揆方は劣勢となります。 信元の仲介により戦いは一時停戦となりました。

その後、浄珠院(じょうじゅいん)で和議が結ばれ、一揆に参加した者の赦免や寺院に対する不入の権を保証するなどの条件で合意しました。 家康にしても、東三河でまだ抵抗を続ける今川勢との戦いもあることから、譲歩して一揆を終息させたのです。

ただし、家康はこの約束を守りませんでした。一揆の中心であった本証寺、上宮寺、勝鬘寺(しょうまんじ)ら有力寺院の僧侶に対しては改宗を迫り、これを 拒否すると追放しました。また、一揆に呼応した吉良氏や荒川氏などの国衆も追放します。

一揆に加わった家臣たちは三河から出奔しますが、本多正信(ほんだまさのぶ)のように許され復帰する者もいました。また、最後まで抵抗した酒井忠尚は追放されています。 こうして一揆を鎮圧した家康は三河統一に向けて再び動き出したのです。

11、三河統一と徳川への改姓

永禄7年(1564年)三河一向一揆を鎮めた家康は、東三河で抵抗を続ける今川方の攻略に再び乗り出します。 奥三河の有力国衆であった奥平氏を味方に引き入れると、翌年には東三河における今川方の拠点であった吉田城、田原城を落とし、 最後まで抵抗を続けていた牛久保城の牧野氏を服従させ、永禄9年(1566年)に三河国を統一しました。

三河を統一した家康は家臣団の再編成を行います。 服従して間もない東三河の統治を信頼する重臣 酒井忠次に任せ、西三河には石川家成を置き、彼らの下に松平一族やその他の譜代家臣、国衆らを配置しました。 また、家康直属の部隊である旗本を編成して本多忠勝や榊原康正らを登用していったのです。

さらに、家康は朝廷に働きかけ徳川への改姓と三河守への叙任を求めます。三河国を統治するにふさわしい家柄であることを示すために、 家の格を上げる必要があったのでしょう。

「徳川」の由来は、源氏である新田氏の一族「得川(とくがわ)」からきているとされ、清和源氏の流れをくむ名家であるという筋書です。 隣国の今川や武田は源氏の名門であり、これらと対抗するためにも必要な措置でした。

また、西三河に点在する松平一族を家臣化するためにも、宗家と松平一族の格の違いを明確にする必要がありました。 このころの松平一族では、家康の系統(安城松平家)を宗家と認めていましたが、あくまで一族の代表であるという認識でした。

松平家忠が記した「家忠日記」の中でも「家康」と呼び捨てにしています。 この時代はまだ松平一族の影響力は強く、家康の発給した書状などにも一族に気を使っている様子がうかがえます。 彼らを家臣団に組み込むためにもそれなりの大義名分が必要だったのです。

12、遠江への進行

三河を統一した家康の目は隣国の遠江に向けられます。遠江は今川の支配下にありましたが、桶狭間の戦い以降離反を画策 する国衆が相次ぎ、今川氏真は体制の引き締めに躍起になっていました。

家康は三河と遠江の国境付近の国衆に調略をしかけ内応を誘います。これに応じたのが井伊谷三人衆と呼ばれた菅沼氏、近藤氏、鈴木氏でした。 彼らの道案内で遠江に侵攻した徳川勢は、井伊谷城を落とし、引馬城まで兵を進めます。

家康が遠江に侵攻した背景には同盟者である織田信長の存在がありました。上洛を急ぐ信長と駿河に侵攻したい信玄の思惑が一致したことで 両者が手を結んだのです。

これにより徳川と武田の間にも同盟が締結され、家康は遠江に、信玄は駿河へと侵攻できる条件が整ったのです。

永禄11年12月(1568年)武田軍の怒涛の進撃に本拠地駿河を追われた今川氏真は遠江の掛川城に逃れます。 しかし、遠江にも時を同じくして徳川軍が侵攻しており、氏真が安心できる場所はどこにもありませんでした。

徳川勢に城を囲まれた氏真は必死の抵抗を見せます。浜名湖沿岸には家康への服従を良しとしない国衆や土豪たちが抵抗を続けていたこともあり、 家康は掛川城に和睦を持ち掛けるのです。

このとき家康は、武田を駿河から追い出したのちは氏真に駿府を返すことを約束したとされています。 氏真はこの条件を受け入れ城を明け渡し、妻の実家である北条氏を頼り相模へと落ちていきました。

今川を追い出し遠江を手に入れた家康ですが安心できる状況ではありませんでした。 同盟相手の武田軍が信濃に侵攻していたのです。

信玄は駿河への侵攻と時を同じくして信濃にも軍を進めていたのです。 徳川と武田の同盟締結時に大井川を堺に西側が徳川、東側が武田と国分が決められていたようですが、信玄はこの協定を破り 秋山虎繁(あきやまとらしげ)を徳川領に侵攻させたのです。

この動きに対し家康は信玄に抗議をします。信玄は国分の堺は大井川ではなく天竜川だとする書状を送っています。 双方の主張が違うことから、国分の堺があいまいだった可能性もあります。

駿河に侵攻した信玄は、北条氏康が今川に加勢したため攻略に手間取っていました。 駿河の統治を急ぐ信玄は、家康との衝突を避けるため秋山軍を信濃から引かせたのです。

この一件で徳川と武田は互いに不信感を抱くようになり、やがて家康は上杉と同盟を結び信玄との関係を断つことになります。

13、姉川の戦い

永禄11年9月足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、三好三人衆の勢力を駆逐して機内を平定すると、足利義昭を15代将軍に就任させます。 翌年には義昭が住む御所を築くと畿内の統治を進めていきました。

永禄13年(1570年)信長は各地の有力大名に対し上洛を命じる書状を送ります。畿内を中心に多くの大名が上洛しますが、越前の朝倉氏はこれに応じませんでした。 同年4月信長は朝倉義景を討つため軍勢を率いて京を発つと、敦賀に侵攻して朝倉氏の支城を次々に落とします。

順調に進軍する織田軍でしたが、このとき信長の元に驚愕の情報が届きます。義理の弟浅井長政が信長を裏切ったのです! この知らせを聞いた信長はすぐさま退却を決断すると、少数の軍勢だけで金ヶ崎を脱出します。

家康もこの遠征に加わっていましたが、どのような状況で脱出したのかは不明です。 何とか帰国することができた信長は裏切った浅井氏を攻めるべく軍勢を率いて出陣しました。

家康も5千の兵で加勢します。姉川に陣を構えた織田・徳川の連合軍はおよそ2万5千。これを迎え撃つ浅井軍はおよそ1万3千(浅井5千と朝倉の援軍8千) これだけの軍勢が戦った姉川の戦いですが、合戦の詳細を記した史料はほとんどありません。

「信長公記」には28日の早朝6時ごろに戦いがはじまり両軍が推し乱れしのぎを削って戦ったと記されています。 「松平記」では織田が浅井に押され苦戦しているところを、朝倉を崩した徳川勢が浅井に横槍を入れて勝利に導いたとしています。

姉川の戦いは兵力で勝る織田・徳川連合軍の勝利に終わりましたが、完全決着とはいかず浅井・朝倉勢にはまだ余力が残っていました。 小谷城に戻った浅井長政は籠城戦に切り替えます。

堅牢な小谷城を力攻めで落とすことを断念した信長は、木下藤吉郎に横山城の守備を任せ兵を引いたのです。 浅井、朝倉勢は足利義昭や本願寺、武田信玄と手を組み信長に対抗しますが、頼みとしていた信玄が死去すると、姉川の戦いから3年後の天正元年(1573年) 信長によって滅ぼされました。

14、三方ヶ原の戦い

元亀2年10月(1571年)相模の北条氏康(ほうじょううじやす)が死去します。 武田との同盟に反対していた氏康が死んだことで、北条の外交戦略に変化が生じました。

跡を継いだ氏政は上杉との同盟を破棄して武田との再同盟に踏み切ります。これにより背後の心配がなくなった信玄は西上の準備にとりかかります。 元亀3年10月(1572年)武田信玄はおよそ2万の兵を率いて躑躅ヶ崎館を出陣!遠江に向け軍を進めました。

信玄が大軍を率いて西上した目的には諸説ありますが、将軍足利義昭、浅井長政、朝倉義景、本願寺顕如など、いわゆる信長包囲網との連携により、 上洛を果たすためだと考えられてきました。

信玄の目的がどこにあったのかは新たな史料の発見などを待つしかありませんが、この進軍で危機に直面したのが徳川家康です。 信玄の西上ルートには家康の領地である遠江、三河があったからです。

信玄は事前に遠江や三河、美濃の国衆に調略を仕掛け織田・徳川から離反するよう働きかけていました。 三河の山家三方衆、遠江の天野氏、美濃の遠山氏、遠藤氏らが武田方となります。

家康は武田軍の攻撃に備え信長に援軍の要請をする一方で、兵を集め籠城の準備に取り掛かります。 佐久間信盛(さくまのぶもり)、平手汎秀(ひらてひろひで)3千の援軍が到着すると、武田勢を迎え撃つ体制が整いました。

遠江に入った信玄は二俣城を攻めこれを開城させると、浜松城を目指し軍を進めます。 このまま浜松城を取り囲むと思われた武田軍ですが、突如向きをかえ城の西に位置する三方ヶ原台地に進んでいきました。

悠々と進軍する武田軍!敵の軍勢に目の前を素通りされ何の攻撃もしなければ家康の面目は丸潰れになります。 弱腰の家康を見れば服従して間もない遠江の国衆たちの離反がさらに加速する危険がありました。

家康は家臣の反対を押し切り城から出ると武田軍を追います。三方ヶ原台地で急襲すれば勝機はあると考えたのです。

しかし、これは信玄の作戦でした!台地で陣を構え待ち伏せしていたのです。まんまと誘い出された家康は圧倒的に不利な状況で戦いに 突入しました。

武田の足軽が徳川勢に礫を投げたことで戦いが始まります。 「松平記」や「三河物語」によると、夕刻に始まり短時間で決着がついたとしています。さんざんに打ち負かされた徳川勢は多くの死傷者を出し、家康自身も 命からがら浜松城に逃げ帰りました。

城に戻った家康は城門を開けた状態のまま、門の周囲に篝火を設置します。これを見た武田の兵は警戒して城に攻め込まなかったとされています。 多くの犠牲で九死に一生を得た家康は絵師を呼んで自分の姿を描かせます。無謀な戦いは二度としないという自分への戒めとして描かせたといわれています。

三方ヶ原の戦いに関する史料は少なく、合戦の様子についても後世に創作された可能性があります。 篝火の逸話に関しても作り話だと考えられていますが、絵に関しては家康の自画像が残っているので実話と考えられています。

三方ヶ原の戦い敗戦直後の徳川家康
*三方ヶ原で惨敗した直後の徳川家康

15、長篠の戦い

長篠の戦い
*長篠の戦い

三方ヶ原の戦いで徳川家康に打撃を与えた武田信玄は三河に進み野田城を落としますが間もなく発病します。 元亀4年4月(1573年)信玄は信濃駒場でその生涯を閉じました。 信玄の死は秘密にされますが、噂はすぐに周囲の国に伝わり、翌月には家康が駿河に出兵しています。このとき武田からの反撃が ほとんどなかったことから、家康は信玄の死を確信したとされています。

家康は武田に奪われた失地の回復をはかり、7月には長篠城を攻撃してこれを取り戻しています。さらに三河や遠江の国衆に調略を仕掛け 武田からの離反を誘います。

この誘いに山家三方衆の奥平定能(おくだいらさだよし)が応じたため、家康は定能の嫡男信昌(のぶまさ)に長女の亀姫を嫁がせる約束をします。

家康の巻き返しに武田も手をこまねいた訳ではありません。信玄の跡を継いだ勝頼は遠江に遠征して高天神城を囲みます。 このときの武田の軍勢は2万とされ、大軍で包囲された高天神城では城主の小笠原氏助(おがさわらうじすけ)が家康に使者を送り援軍を要請しました。

単独で武田に対抗できない家康は信長に援軍を求めますが、援軍が到着する前に高天神城は開城してしまったのです。 東遠の要地である高天神城を手に入れた勝頼は、天正三年(1575年)になると三河への侵攻を開始します。

野田城を落とした武田軍は吉田城まで侵攻して周囲に火を放ち家康を挑発しました。 さらに兵を返し長篠城を取り囲んだのです。

この知らせを受けた家康はすぐに信長に援軍を要請します。信長も武田と雌雄を決するため自ら大軍を率いて岐阜から出陣したのです。

武田の大軍に包囲された長篠城では奥平信昌を中心に5百の兵が城を守り応戦していましたが、圧倒的な兵力の差に落城は時間の問題でした。 そんな長篠城に援軍到着が近いことを知らせたのが鳥居強右衛門(とりいすねえもん)でした。

強右衛門の情報通りほどなくして信長の援軍が到着すると、織田・徳川連合軍は設楽が原に陣を構えます。 勝頼もまた長篠城に押さえの兵を残して設楽が原に向かい両陣営が対峙したのです。

天正3年5月(1575年)織田・徳川連合軍と武田軍が激突します! 戦いは早朝から始まり午後3時ごろまで続いたようですが、長篠の戦いに関しても「信長公記」「甲陽軍鑑」「松平記」などの史料に 記載はありますが、情報量は少なく合戦の詳細な様子はよくわかっていません。

通説では騎馬隊を中心とする武田軍の突撃を、織田・徳川連合軍が馬防柵と三千挺の鉄砲で防ぎ撃破したとされています。 馬防柵については「信長公記」や他の書状にも記載があるので、実際に設置されたと考えられていますが、鉄砲の数や三段撃ち、騎馬隊の 突撃に関しては研究者の間でも意見が分かれています。

確かなことはこの戦いで武田軍が大敗して、山県昌景、馬場信春、土屋昌続、原昌胤、内藤昌豊、小幡信貞、甘利信康、真田信綱など、 信玄とともに戦国の世を戦い抜いた歴戦の武将たちが討死してしまったということです。

16、信康の切腹

徳川家康の嫡男信康は永禄2年(1559年)に誕生しました。母は正室の築山殿。永禄10年(1567年)には信長の娘五徳を妻に迎えています。 長篠の戦い他、多くの合戦に参戦して実績を積んでいきます。

徳川家の跡取りとし順調に歩んでいるかに思われた信康ですが、天正7年9月(1579年)切腹に追い込まれます。信康切腹の原因について「松平記」「三河物語」では
・日ごろから粗暴なふるまいが多かった
・五徳とは不仲であった
・母の築山殿が武田と内通していた。

このように母の築山殿が武田と内通して、信康もこれに加担していたと疑われたことが原因だとしています。 信長は信康を処分することを命じ、これを拒否することができない家康は、家臣に命じて築山殿を殺害、その後信康を自刃させました。

悪者は築山殿、信長であり、家康は被害者であるという図式ですが、近年の研究では岡崎城の信康と浜松城の家康との 間に何らかの不和が生じ、それが事件の発端になった可能性があると指摘されています。

信康を支持する勢力に謀反の兆候があったのかもしれません。反家康勢力が大きくなる前に築山殿と信康を処分して分裂を回避したとも考えられます。

17、本能寺の変と伊賀越え

神君伊賀越えルート
*伊賀越えルート

長篠の戦いで大勝利を得た徳川家康は、この機を逃すまいと遠江に積極的に侵攻します。 二俣城を落とすと、高天神城に狙いを定めます。 重要拠点である高天神城を失うまいと武田も兵を送り両軍の間で何度も戦いが行われますが、天正9年3月高天神城は落城します。

信濃での拠点を失った武田の影響力は急激に低下をします。 翌天正10年になると信濃の木曽義昌(きそよしまさ)が武田から離反して信長の傘下に入ります。

これを好機とみた信長は信忠を甲斐に向け出陣させます。信忠軍の侵攻に信濃の国衆の多くが服従したため、大した抵抗を受けることなく 信濃を制圧した信忠は甲府に向け軍を進めたのです。

追い込まれた武田では、穴山信君(あなやまのぶきみ)など、重臣の中からも離反者が現れ逃亡する兵が相次ぎます。 高遠城の仁科信盛(にしなのぶもり)が信忠軍に抵抗して意地を見せますが、3月2日に高遠城は落城します。

勝頼は新府城を捨て岩殿山城を目指しますが、小山田信茂の裏切りにより入城を拒否されます。 行き場を失った勝頼主従は天目山で自刃して果てたのです。

武田を滅ぼした信長は、武田の旧領に家臣を配置します。 このとき家康は信長から駿河一国を恩賞として与えられています。 これにより家康は、三河、遠江、駿河の三カ国を領有する大大名となったのです。

恩賞のお礼のため安土を訪れていた家康は信長から接待を受け、その後堺を見物したとされています。 堺では今井宗久(いまいそうきゅう)らの茶会に招かれもてなしを受けていますが、天正10年6月2日(1582年)早朝に 本能寺の変が起こったのです。

家康は本能寺の変当日に信長と京で会う予定だったので、堺から京に向かっている途中に本能寺の一報を聞いたと思われます。 このとき家康一行の中には、信長の命令で案内役をしていた長谷川秀一と、家康と同じく恩賞のお礼のため上洛していた 穴山信君がいました。

明智謀反の知らせを家康に伝えたのは茶屋四郎次郎だとされています。茶屋から事の詳細を聞いた家康は、明智の雑兵に討たれるぐらいなら 潔く切腹して信長に殉じたいといいますが、信長の弔い合戦をすべきだとする家臣の意見を受け入れ、領国に戻ることを決めたのです。

途中で家康一行と分かれた穴山信君は宇治付近で一揆勢に襲われ落命します。 長谷川秀一、服部半蔵、和田定教(わださだのり)らの道案内により、堺から宇治ー甲賀ー伊賀ー伊勢を通り、伊勢の白子浦で舟を調達 して三河の大浜に到着!ようやく岡崎に戻ることができました。

この逃避行を伊賀越えと呼んでいます。険しい山中を進む家康一行は途中一揆に襲われる場面もあったようですが、金をばらまき 逃れたとも、勇猛な家臣たちが奮戦して逃れたともいわれています。

服部半蔵や和田定教など地理に明るい人物がいたため、地元の領民や地侍たちを味方につけ先導させることで無事に帰国することができたのです。

18、天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)

伊賀越えによって6月5日に帰国した家康は明智光秀を討つべく14日に出陣します。 尾張の鳴海付近まで進軍したときに羽柴秀吉からの報告ですでに光秀が討たれたことを知った家康は岡崎に引き返します。

上方の状況を注視しながらも、家康の目は武田の旧領である甲斐、信濃に向けられていました。 家康は甲斐を治めていた河尻秀隆(かわじりひでたか)の元に本多信俊(ほんだのぶとし)を派遣しますが、 その信俊が殺害されるという事件が起こります。

家康が何の目的で使者を派遣したのか不明ですが、大須賀康高(おおすがやすたか)らに甲斐領内の様子や国衆の動向を探索させていたようなので、 この動きを察知した河尻が信俊を殺害したとも考えられます。

河尻だけでなく、武田の旧領に配置された織田方の武将たちは新しい領地を掌握しきれておらず、国衆たちが不穏な動きを見せていたのです。 家康は領地を広げる絶好の機会とばかりに甲斐、信濃の国衆に調略を仕掛けます。

武田の旧領と領地を接する北条氏政もまた領土を拡張すべく上野国に侵攻すると、神流川の戦い(かんながわのたたかい)で滝川一益(たきがわかずます)を破り 伊勢長島に撤退させたのです。

森長可(もりよしなり)、毛利秀頼(もうりひでより)も撤退!甲斐に残った河尻秀隆は国衆から攻撃を受け命を落とします。 領主不在となった甲斐、信濃、上野を巡り徳川、北条、上杉、真田が争う天正壬午の乱へと突入していきます。

滝川一益を追い出した北条軍は信濃に侵攻しますが、この動きをみた上杉氏もまた北信濃に侵攻して両軍が対峙します。 北信濃は上杉氏の勢力が強く長対陣は不利と見た北条軍が南下したため、南信濃に兵を進めていた徳川勢と争うことになったのです。

両軍は若神子(わかみこ)で対峙しますが、このときの兵力は徳川勢8千に対し北条勢5万とされ、軍勢の上では圧倒的に北条が有利な状況でした。 直接対決は不利とみた家康は信濃や上野の国衆に調略を仕掛けます。これにより信濃の真田が徳川方となります。

上野にも領地を持っていた真田が徳川に寝返ったことで、上野の統治に不安を覚えた北条が徳川に和睦を申し入れます。 話し合いの結果、甲斐と南信濃は徳川、上野は北条と国分が決定します。さらに、家康の娘督姫(とくひめ)と北条氏直との婚約が約束されたことで両軍は兵を引き上げたのです。 ただし、この国分はあくまで徳川と北条の取決めであって他の大名の了承を得ていたわけではありません。

この国分に憤慨した真田は上野の沼田領と吾妻領をめぐり徳川、北条と争うことになります。

19、小牧長久手(こまきながくて)の戦い

山崎の戦いで明智光秀を討ち信長と信忠の無念をはらした秀吉は清須会議で主導権を握ると信忠の嫡男三法師を織田家の相続人に定めます。 わずか三歳の三法師に家督を継がせた秀吉は後見人となり織田家中での発言力を高めます。

これに危機感を持った柴田勝家は反秀吉勢力を結集して挙兵しますが、賤ヶ岳の戦いで秀吉軍に敗れると居城の北ノ庄城で切腹して果てました。 家康は織田家の争いには介入せずに、賤ヶ岳の戦いに勝利した秀吉の元に石川数正を派遣して名器「初花(はつはな)」の茶壺(ちゃつぼ)を贈っています。 秀吉も家康に「不動国行(ふどうくにゆき)」の刀を贈っています。

この段階では秀吉はあくまで織田家の重臣であり、三法師の後見人という立場です。しかし、石山本願寺跡に大坂城を築城したあたりから 天下を望んでいることを態度でも見せ始めたのです。

信長の二男信雄(のぶかつ)に大坂城への出仕を求めます。信雄は秀吉の言動に不信をつのらせ警戒するようになります。 秀吉は信雄に仕えていた三人の家老に近づき懐柔しますが、この動きを察知した信雄は長島城に三家老を呼び寄せ誅殺してしまったのです。

この事件が発端となり小牧長久手の戦いが起こります。三家老誅殺を知った秀吉は信雄の本拠地伊勢に向け兵を送りますが、 信雄もまた家康と連携して秀吉軍を迎え撃つ準備を整えたのです。

織田家の内紛に関与していなかった家康がなぜここで信雄方となり秀吉と敵対したのでしょうか? 理由は諸説ありますが、秀吉の勢力が西日本のみならず、東日本にも拡大してきたことに危機を感じた家康が、秀吉の勢いを止めるために この段階で一戦におよんだとする考えが通説となっています。

秀吉軍の池田恒興(いけだつねおき)が信雄方の犬山城を落としますが、家康の家臣 酒井忠次が秀吉軍の森長可(もりながよし)隊を襲い これを敗走させる軍功をあげます(羽黒の戦い)

家康と信雄は小牧山に陣を構えると、秀吉もまた小牧山から2キロほど離れた楽田(がくでん)に本陣を置きました。 このときの両軍の兵力は史料によってまちまちですが、家康・信雄軍が約1万5千、秀吉軍が約3万(総兵力は10万)ほどで、兵力の上では秀吉軍が優勢でした。

両軍が睨み合い膠着状態となりますが、このとき池田恒興が手薄になった岡崎城攻撃を秀吉に進言します。 恒興の娘婿である森長可が羽黒の戦いで敗退したため、その汚名を挽回しようとしてこの作戦を立てたのだとされています。

秀吉はこの作戦に消極的でしたが、恒興の度重なる説得に折れ部隊を編成します。岡崎攻撃部隊の総大将は三好秀次、これに池田恒興と森長可、堀秀政 がつけられ総勢2万という陣容です。

天正12年(1584年)4月9日早朝、先鋒の池田恒興と森長可が出発すると、続いて堀秀政、三好秀次も岡崎に向け兵を進めました。恒興と長可は徳川方の岩崎城を落とすと、 勢いそのままに進軍します。後続の掘隊に続き進軍していた三好秀次の部隊は白山林(はくさんばやし)まで兵を進め一時休息をとります。

その三好隊に突如徳川勢が襲い掛かったのです。秀吉方の動向を事前につかんでいた家康は小牧山から兵を移動させていました。 岡崎攻撃部隊の最後尾にいた秀次の部隊に追いつくと背後から奇襲攻撃を仕掛けたのです。

突然の攻撃に混乱した秀次隊は態勢を立て直すことができず敗走します。三好隊への攻撃を知った堀隊は兵を引き返して徳川勢と戦いますが 反撃を受け撤退!

戦場に取り残された池田隊、森隊は仏ヶ根(ほとけがね)で徳川勢と相対します。作戦の失敗は誰の目にも明らかであり、責任を痛感した池田恒興・元助(もとすけ) 父子と森長可は猛然と徳川勢に攻撃を仕掛けますが、森長可が眉間を撃たれて討死!池田恒興と元助も討たれ部隊は壊滅しました。

秀吉軍大敗の知らせは上方にも伝わり戦死者は1万3千にものぼるという噂が広まります。戦死者数は史料によって異なりますが、秀吉方は3千、家康方は5百ほどで あったとされています。

戦いに勝利した家康ですが、秀吉との兵力差は大きく攻撃を仕掛けることはできませんでした。秀吉もまた家康の戦巧者ぶりを目の当たりにしたことで不用意な 戦いを避けるようになります。

その後、尾張、伊勢方面で局地戦が展開されますが、大きな戦いは行われず、秀吉が信雄を懐柔して和睦を結んだことで戦いは終結したのです。

20、豊臣秀吉への臣従と関東への国替え

徳川家康 関東への移封と家臣の知行割り
*関東への移封と家臣の知行割り

小牧長久手の戦いで勝利したものの、秀吉との力の差は大きく家康単独で対抗するには限界がありました。 さらに重臣の石川数正が出奔して秀吉の元に走るという事件が起こり、徳川家の内部情報がすべて秀吉に筒抜けになってしまったのです。

何としてでも家康を臣従させたい秀吉は、妹の旭姫と家康との縁組を成立させると、さらに母親の大政所まで家康に差し出したのです。 畳みかけるような秀吉の懐柔策に頃合いだと判断した家康は上洛して秀吉に臣従したのです。

家康を味方につけた秀吉は天正15年(1587年)に島津征伐を行い九州を統一すると、天正18年(1590年)に小田原の北条氏を滅亡させます。

家康は三河、遠江、駿河、信濃、甲斐五カ国から関東への国替えを命じられます。国替えについては、実力者の家康を関東へ遠ざけ、 東海道の要所に豊臣系大名を配置する狙いがあったとされていますが、関東の取次であった家康が北条滅亡後の関東に 入ることは既定路線であったとする説もあります。

豊臣政権では関東の取次を家康と上杉景勝が担っていたようですが、関東の統治を安定させるためにも実力、経験ともに上回っている家康に任せようと 秀吉が判断したのでしょう。

父祖伝来の地を離れる辛さはあったものの、家康はこの命令を受け入れ関東に入国しました。 家康は天正18年7月29日に小田原を出立して8月1日に関東入りしたとされています。そのため江戸時代には8月1日を八朔(はっさく)と呼び大変おめでたい日 とされました。

しかし、実際には七月中には江戸に入っていたようです。秀吉は北条氏を滅ぼしたのち奥羽に向けて兵を進めますが、その途中に江戸に寄っています。 秀吉が江戸を訪れたのが7月19日だとされていて、家康は秀吉を迎えるためにそれよりも前に江戸に入っていたようで、そのことを示す書状が残っています。

関八州の統治を任された家康ですが、関東には佐竹氏、里見氏、宇都宮氏などの領地があり、関八州のうち家康が領有できたのは伊豆、相模、武蔵の全域、上野と上総と下総の大部分、下野の一部になります。 この国替えでおよそ240万石の領地を獲得した家康は、豊臣政権下で秀吉に次ぐ実力者となったのです。

家康とともに関東に入った家臣たちは知行割りにより各地に配置されます。井伊直政 上野国箕輪12万石、榊原康政 上野国館林10万石、本多忠勝 上総国大多喜10万石、 酒井家次 下総国臼井5万石、武田信吉 下総国佐倉4万石、鳥居元忠 下総国矢作4万石、松平康元 下総国関宿2万石、保科正光 下総国多古1万石、松平忠吉 武蔵国忍10万石、高力清長 武蔵国岩付2万石、酒井重忠 武蔵国河越1万石、 松平家広 武蔵国松山1万石、松平康直 武蔵国深谷1万石、大久保忠世 相模国小田原4万5千石、本多正信 相模国玉縄1万石、平岩親吉 上野国厩橋3万3千石、本多康重 上野国白井2万石

家康は徳川家の直轄領である蔵入地で検地を行うと、翌年にかけて家臣領にも検地を広げ領地の掌握につとめました。

21、豊臣秀吉の死と関ヶ原の戦い

豊臣秀吉に臣従してからの家康は秀吉に忠節を尽くし、秀吉もまた家康を信頼して重要な任務を任せました。 慶長3年(1598年)体調を崩した秀吉は自分が亡き後の政権運営を五人の大老と五人の奉行に任せる体制を整えます。いわゆる五大老、五奉行制です。

五大老・・・徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家
五奉行・・・浅野長政、石田三成、前田玄以、増田長盛、長束正家

幼い秀頼の行く末を五大老と五奉行に託した秀吉は八月十八日伏見城でその生涯を閉じます。 五大老の中でも家康の軍事力、経済力は抜きにでており、家康中心の政権運営が行われます。

秀吉の存命中には大名同士の婚姻は厳しく制限されていましたが、家康は豊臣家に無断で婚姻を取り結びます。
松平忠輝と伊達政宗の娘
福島正之と松平康元の娘
蜂須賀至鎮と小笠原秀政の娘
加藤清正と水野忠重の娘
黒田長政と保科正直の娘

慶長4年家康に対抗できる存在であった前田利家が亡くなると、家康の専横は顕著になりこれを非難した石田三成らとの間に深刻な対立が生まれます。

秀吉の晩年には豊臣家臣団は文官派と武断派に分かれていました。朝鮮出兵と秀吉の逝去を機に対立はより深刻なものとなっていきます。 家康は豊臣家臣団の分裂を巧みに利用して、石田三成ら文官派に反感を抱いていた福島正則、加藤清正、黒田長政、細川忠興ら武断派の大名たちを取り込みます。

前田利家の死後、武断派大名7名が三成を襲撃する事件が起こります。 通説では三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされていますが、実際は佐竹義宣の屋敷に避難したあと伏見城の石田屋敷に移っています。 伏見で対峙する両者を家康が仲裁し、騒動の責任をとらせる形で三成を領国の佐和山に蟄居させたのです。

慶長4年8月(1599年)五大老のひとり上杉景勝が領国である会津に戻ります。景勝は前年に秀吉の命令で越後から会津へ国替えをしていますが、 秀吉の死後五大老としての政務を行うため上洛していました。

国替えして間もない領国を整備するために帰国をしたのですが、会津に戻った直後から景勝謀反の噂が広まります。 景勝は領国において無断で城を改修し、武器を調達しているという報告があがってきます。 家康は景勝に上洛を命じますが、これに対し景勝家臣の直江兼続が「直江状」と呼ばれる書簡で家康の専横を痛烈に非難しました。

家康は秀頼に対する謀反の罪で上杉討伐を決定すると諸国の大名に出陣を要請し、自ら討伐軍を率いて会津に向かいます。 家康が上方を離れた隙に佐和山で蟄居していた石田三成が挙兵!毛利輝元、宇喜多秀家らを取り込み反家康勢力を結集しました。

下野の小山(おやま)でこの知らせを聞いた家康は、上杉討伐に従っていた大名に対し、家康、三成どちら側についてもかまわないと発言しますが、 多くの大名が家康とともに戦うことを選びました(真田家は犬伏の別れで昌幸が三成方、信幸が家康方となる)

挙兵した三成ら西軍は、家康の家臣鳥居元忠、松平家忠がこもる伏見城を攻めこれを落とすと美濃の大垣城に入ります。 一方、軍を西に向けた家康は江戸に到着すると、福島正則、加藤清正ら豊臣恩顧の大名を先鋒隊として進軍させます。

諸大名の動向を観察していた家康は、先鋒隊が西軍の岐阜城攻めを開始したことを確認してから江戸を発ち大垣城の北に位置する勝山に陣を構えました。 家康本隊の到着を知った西軍は大垣城を出て関ヶ原に陣を敷くと、東軍もまた関ヶ原に進軍して両軍が対峙しました。

石田三成は笹尾山、南宮山には毛利秀元、吉川広家、松尾山には小早川秀秋、天満山には宇喜多秀家らの部隊が展開していて、関ヶ原の盆地を取り囲むように 西軍が布陣します。周囲を西軍に囲まれた東軍は陣形の上では圧倒的に不利な状況でした。

両軍の兵力は史料によってまちまちですがほぼ互角であり、東西あわせておよそ15万の兵が動員されたのです。 東軍の井伊直政、松平忠吉隊の抜け駆けによって戦端が開かれ、東西両軍の間で激戦が展開されます。

戦況はほぼ互角ですが、西軍で戦っているのは石田隊、宇喜多隊、小西隊、大谷隊のみで、毛利や小早川、島津の部隊はいっこうに動く気配を見せません。

西軍の吉川広家、小早川秀秋は家康に内応しており、前方に陣取っていた吉川隊が動かなかったため、毛利は動くことができず、 長曾我部、長束の各隊も兵を動かそうとしない吉川勢を警戒して戦闘に参加することができない状況でした。

松尾山の小早川秀秋は家康に裏切りを約束したものの、善戦している西軍をみて決断しかねていました。 家康は松尾山に向けて一斉射撃を行い裏切るよう催促します。

これにより小早川隊は松尾山を下って西軍の大谷隊に攻撃を仕掛けます。小早川隊の動きに連動して脇坂、朽木、赤座、小川の各隊も東軍に寝返ったことで 勝敗は決しました。

小早川の大軍に背後から襲われた大谷隊は壊滅!続いて宇喜多隊、小西隊も東軍に崩され戦場から離脱します。最後まで奮戦していた石田隊も 敗走したことで西軍は総崩れとなります。

戦いに参加しなかった島津隊は大将の島津義弘を逃がすために敵中突破を敢行して多くの損害を出しました。石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は落ち武者狩りで捕縛され、京の六条河原で斬首となります。宇喜多秀家も捕らえられ八丈島に配流となりました。

22、征夷大将軍と江戸幕府の成立

家康は西軍についた武将を容赦なく処罰します。五大老であった毛利や上杉も例外ではなく改易は免れたものの大幅な減封となりもはや存続するだけで精一杯の 状況となります。西軍の武将たちから没収した領地は700万石を超え、その中には豊臣氏も含まれていました。

豊臣氏の直轄領である蔵入地は200万石以上あったとされていますが、戦後は65万石にまで減らされます。一方で東軍に味方した武将たちには恩賞として加増が行われました。 福島正則、黒田長政、加藤清正、田中吉政、浅野幸長、山内一豊、中村忠一、梶尾忠氏など豊臣恩顧の大名たちも大幅な加増を受けますが、その多くが西国に転封され、 かわりに畿内、東海道の要所には徳川一門、譜代の重臣が配置されたのです。また、徳川家の直轄領も200万石まで増加したとされています。

しかし、家康はあくまで豊臣家の家臣であり、秀頼の名代として政務を行っているに過ぎませんでした。 そのため、この段階で徳川家と諸大名の間には主従関係は成立していません。

家康が自らの政権を樹立するためには、豊臣家と諸大名のつながりを断つ必要がありました。 家康は関ケ原の翌年に大坂城から伏見城に移ります。政務の場所を伏見城に移すことで豊臣家の政治関与を防いだのです。

政治の中心が伏見城に移ったことで諸大名が大坂城を訪れる機会は減ります。一方で家康と諸大名とのつながりは密になり関係を深めていきました。 こうして諸大名を取り込んでいった家康は、慶長8年(1603年)2月伏見城で征夷大将軍に就任し、翌月には参内して後陽成天皇に拝賀します。

自らの政権を樹立した家康ですが、大坂城には秀頼が健在であり、豊臣家に心を寄せる大名も少なくありませんでした。 家康は慶長10年(1605年)に将軍職を秀忠に譲ります。将軍職は代々徳川家が継承するという宣言であり、 再び豊臣の治世に戻ることがないことを世の人々に示したのです。

将軍職を譲った家康は慶長12年(1607年)に駿府城に移り、大御所として引き続き政務を行いました。 江戸幕府初期は駿府の家康と江戸の秀忠の二元政治が行われますが、重要な事項は家康の了承が必要であり、あくまで大御所家康が幕政の中心にいたのです。

家康は諸大名にお手伝普請を課して大名との間に主従関係を構築していきました。大名たちは江戸城や駿府城のお手伝普請を行うことで徳川家への忠誠を示したのです。

慶長16年(1611年)3月家康は上洛をしますが、このとき二条城で豊臣秀頼と会見を行います。この会見は家康が豊臣家へ要請したもので、大坂城の秀頼が 家康のいる二条城を訪問することで、豊臣が徳川に臣従したことを世間にアピールする狙いがあったのです。

23、大坂の陣と家康の死

将軍職を秀忠に譲り、諸大名との間に主従関係を構築した家康にとって目の上のこぶが大坂城の秀頼でした。 天下人であった秀吉の子が難攻不落の大坂城に居るという現実は徳川家にとって脅威であり、 65万石の一大名に格下げされてもなおその存在は特別なものでした。

家康は秀吉との約束を守り慶長8年(1603年)に孫の千姫を秀頼の元に嫁がせ豊臣家との間に姻戚関係を結んでいます。 秀頼が積極的に徳川家に臣従する態度を見せれば、徳川一門の大名として生き残れた可能性もあります。

秀頼自身が天下を望んでいたかは不明ですが、母の淀君や側近たちは豊臣家は特別な存在であり、家康亡き後には再び豊臣の世がくることを望んでいたのでしょう。 そのような思いが言葉や態度になってあらわれたのかもしれません。

家康は豊臣家が再建していた方広寺大仏殿の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」の文字が刻まれていたことを見つけると、 これは家康を呪い、豊臣家の繁栄を願う文章であると難癖をつけます。

豊臣家では重臣の片桐且元を派遣して弁明を行いますが、家康は3つの条件からひとつを選ぶよう求めます。
1、秀頼に江戸参勤をさせる
2、淀君を人質として江戸に差し出す
3、秀頼が大坂城を出て国替えする

大坂城に戻った片桐且元は寝返りを疑われ孤立!秀頼と淀君が3条件を拒絶したことで両家の間に緊張が高まります。

徳川への内応を疑われた片桐且元が大坂城から退去すると、城内では強硬派が優勢となりもはや戦いは避けられない 状況となりました。

家康は諸大名に出陣を命じると、自らも兵を率いて駿府を発ち茶臼山に本陣を置きます。 慶長19年11月19日(1614年)大坂冬の陣が開戦!

木津川口の戦い鴫野・今福の戦い博労淵の戦い、野田・福島の戦いなど主要な野戦では 徳川方がすべて勝利をおさめますが、大坂城南側に築かれた出丸(真田丸)をめぐる攻防では 徳川方に多くの死傷者が出て惨敗します。

両軍の話し合いの結果和睦となりますが、翌慶長20年3月再び戦いが行われます(大坂夏の陣) 堀を埋められ裸城となっていた大坂城では籠城することができず大坂方は野戦を余儀なくされます。

兵力で勝る徳川勢が樫井の戦い道明寺の戦い八尾・若江の戦いで勝利をおさめ 木村重成、後藤又兵衛、薄田隼人など大坂方の武将を討取ります。

追い込まれた豊臣勢は天王寺の戦いで奮戦!本多忠朝、小笠原忠脩など徳川勢にも多くの死傷者がでますが、 真田信繁らを討取り勝利をおさめました。

秀頼と淀君は城に火をつけ自刃します。この戦いで豊臣家は滅亡し名実ともに徳川の世となったのです。

家康は禁中並公家諸法度、武家諸法度、一国一城令などの法整備を進め幕府の支配体制を固めますが、 元和2年1月(1616年)鷹狩の最中に倒れると、4月に駿府城内で息を引き取りました(享年75)

家康の遺言により葬儀は増上寺で行われ亡骸は久能山に葬られます(一周忌に日光東照宮に移される) 家康には東照大権現の神号(しんごう)が贈られ神としてあがめられました。

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