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武田信玄(たけだしんげん)

甲斐源氏武田氏の嫡男として誕生した信玄は長尾(上杉)、今川、北条といった強敵と戦いながら戦国最強といわれた家臣団を作り上げました。 天下人徳川家康にも多大な影響を与えた武田信玄とはどのような人物だったのでしょうか。 武田氏の出自から領国の統治、合戦まで、武田信玄の生涯を徹底解説していきます。

1、甲斐武田氏の出自

甲斐源氏武田氏(かいげんじたけだし)系図
*甲斐武田氏系図

武田氏の出自は清和天皇の流れをくむ清和源氏の一族だとされています。

河内源氏の棟梁源頼義(みなもとのよりよし)の子新羅三郎義光(しんらさぶろうよしみつ)が常陸国の国司 に任命されます。

義光は常陸国の有力豪族と姻戚関係を結び常陸国で勢力を拡大していきました。 義光の嫡男 義業(よしなり)が常陸国佐竹郷に移り佐竹氏を称し、三男(もしくは二男)の義清(よしきよ)が 常陸国武田郷に住み武田氏を名乗ったとされています。その後、義清は乱暴を働いたという罪で朝廷に訴えられ甲斐国に移されました。

尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)には義清が甲斐国市河荘に配流されたと記載されています。

甲斐国での義清の足跡は不明ですが、義清と嫡男の清光(きよみつ)は、現地の有力豪族と婚姻関係を結び ながら勢力を拡大していったと推測されます。

清光の子信義(のぶよし)は源頼朝に協力をして富士川の戦い、一ノ谷の戦い、壇ノ浦の戦いに参戦して活躍を見せました。 この信義が甲斐武田氏の初代とされています。

2、信昌(のぶまさ)と信縄(のぶつな)の対立

武田信昌(のぶまさ)、武田信縄(のぶつな)系図
*武田信昌、信縄系図

武田信昌は信玄の曽祖父で甲斐武田氏16代当主となった人物です。室町時代武田氏は代々甲斐の守護に任命されて いましたが、信昌の時代には守護代 跡部氏の力が大きくなっていました。

信昌は跡部氏を排斥して実権を取り戻すことに成功しますが、家督をめぐり信縄と対立します。

信昌は家督を嫡男の信縄に譲っていたのですが、何らかの理由で信縄と対立関係になったため、 信縄を廃嫡して二男の油川信恵(あぶらかわのぶよし)に家督を譲ることを画策しました。そのため、甲斐国内では信昌・信恵派と信縄派に分かれ抗争が勃発したのです。

明応7年8月(1498年)東海地方を大きな地震(明応地震)が襲います。この巨大地震を「天罰」と受取った 双方が和睦を望んだことで争乱は一時終息します。

家督はそのまま信縄が継承しますが、両勢力の争いは信昌と信縄没後も続きました。

3、武田信虎(のぶとら)甲斐国を統一

永正2年(1505年)に信昌、2年後に信縄が相次いで病没すると家督は信縄の嫡男信直(のぶなお)が継承します。 この信直が信玄の父信虎です。

明応地震で終息していた両勢力の争いは信虎の家督継承によって再燃します。 信虎はこのとき14歳であり、これに不満をもった信恵が小山田氏、栗原氏ら国衆を味方につけ対抗したのです。

信虎は信恵の居城である勝山城を急襲して信恵を討取ると、坊ヶ峰の戦いでも小山田弥太郎(おやまだやたろう) を破りました。

信虎は郡内で強い影響力を持つ小山田氏を取り込むため小山田信有(おやまだのぶあり)に妹を嫁がせ懐柔します。 さらに、大井氏や今井氏、飯富氏など独立心の強い国衆を服従させると、甲府に躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築城して 国衆らを城下に住まわせました。

大永元年(1521年)駿河今川氏の軍勢が甲斐に侵攻します。このときの今川の兵力は1万5千とされ、大軍の襲来に信虎は 懐妊していた大井夫人を要害山城(ようがいやまじょう)に避難させています。

今川軍の勢いに劣勢に立たされた信虎でしたが、二度の戦いで今川の主力であった福島正成(くしままさしげ)を 討取り、今川軍を甲斐から追い出すことに成功します。この戦いの最中に大井夫人が男子(幼名 太郎)を出産します。この男子が武田信玄です。

今川の侵攻を阻んだ信虎ですが、北条氏との抗争もあり国内の統治は安定しませんでした。 一度は服従した国衆たちが度々反乱を起こしますが、信虎はその都度戦いで勝利して反乱を鎮圧します。 天文元年(1532年)になると対抗勢力は一掃され、信虎によって甲斐国は統一されました。

4、信虎の追放と晴信(はるのぶ)の家督継承

天文5年(1536年)駿河国では当主の今川氏輝と弟の彦五郎が同日に亡くなるという事件が起こります。その後、今川家では家督をめぐる内乱(花倉の乱)が起こり 国内は乱れました。争いを制した栴岳承芳(せんがくしょうほう)が家督を継ぎ義元を名乗ります。

花倉の乱において信虎は義元を支援していたため、義元が当主になると関係が改善されます。 信虎は自分の娘を義元に嫁がせ今川との間に同盟関係を構築すると、隣国信濃に対し本格的な侵攻を開始したのです。

天文9年(1540年)信虎は娘を諏訪頼重(すわよりしげ)に嫁がせ諏訪氏との間に同盟を結ぶと、翌年には諏訪頼重、村上義清(むらかみよしきよ) らと連合軍を編成して信濃小県郡に侵攻します。

小県郡を領有していた海野氏ら滋野一族との戦い(海野平合戦 うんのたいらがっせん)で勝利を収めた信虎は信濃に所領を獲得します。 小県を足掛かりに信濃への侵攻を画策していた信虎ですが、嫡男の晴信(信玄)によって突如当主の座を追われます。

天文10年(1541年)信濃の遠征から戻った信虎は、同盟相手である今川義元に会うため駿河を訪れますが、晴信は信虎が帰国できない よう国境を封鎖してしまったのです。

信虎追放の原因ですが、通説では以下のように説明しています。
・不仲説(信虎は晴信の弟 信繁を溺愛し晴信の廃嫡を考えていた)
・悪行説(家臣や領民に対し残虐な行為をした)
・疲弊説(相次ぐ戦争や飢饉で領民の生活は苦しく不満が鬱積していた)
・共謀説(百戦錬磨の信虎よりも年若い晴信のほうが御しやすいと考えた義元が晴信のクーデター計画を支持した)

真相は不明ですが、信虎追放を伝える「妙法寺記(勝山記)」など複数の史料には、信虎の追放を喜ぶ民衆の様子が記述されています。 甲斐国では100年に一度の大飢饉が起こり多くの餓死者が出ていたとされ、信虎の治世に対する不満が溜まっていたようです。

武田氏の研究をしている歴史家の平山さんは、信虎を追放した晴信は大規模な徳政令を実施したとする説を発表しています。 度重なる戦争と大飢饉によって疲弊していた甲斐の民衆は、晴信が実施した代替わりの徳政令に歓喜しました。 晴信は領民の支持を得たことでクーデターを正当化することに成功したのだと説明しています。

5、諏訪郡(すわぐん)への侵攻

武田信玄 諏訪郡への侵攻
*信濃国諏訪郡への侵攻

クーデターにより家督を相続した武田晴信は、翌年になると諏訪郡への侵攻を開始します。

諏訪郡は諏訪大社上社(すわたいしゃかみやしろ)の大祝(おおほうり)を代々務めていた諏訪氏によって統治されていました。

大祝とは神職のひとつで、諏訪大社には大祝の他に権祝(ごんのほうり)、擬祝(こりのほうり)、副祝(そえのほうり)などの神職 があったとされています。大祝は諏訪大社上社のトップであり、諏訪地方一帯を治める領主でした。

当主の諏訪頼重には信虎の娘(晴信の妹)が嫁いでおり、武田と諏訪は同盟関係にあったのですが、 信虎追放の混乱に乗じ上杉憲政が佐久郡に侵攻すると頼重は単独で講和を結びます。

海野平合戦で連合を組んだ武田氏や村上氏に無断で講和を結んだことが晴信が諏訪を攻めた理由のひとつだとされています。 また、当時の諏訪氏では権祝 矢島氏との対立や諏訪大社下社の大祝金刺氏との対立、一族の高遠頼継(たかとうよりつぐ)との確執など内紛を抱えていました。 晴信にとって最も攻めやすかった相手が諏訪氏だったのです。

晴信は高遠頼継に調略を仕掛け内応させると、甲府を発ち諏訪に向け進軍しました。 武田軍と高遠軍によって攻められた頼重は、居城上原城を捨て桑原城(くわばらじょう)に籠城します。

晴信は桑原城を包囲すると使者を送り頼重と和睦交渉を行います。このときの和睦の条件がどのようなものであったか不明ですが、 頼重は降伏して開城します。晴信は頼重と弟の頼高(よりたか)を甲府に移送すると東光寺で切腹させたのです。

晴信は諏訪領の東を領有し、西を高遠頼継に与えました。諏訪大社上社大祝の地位と諏訪領の支配をもくろんでいた頼継にとってこの国分は納得のいくものではありませんでした。伊那郡の 藤沢氏と手を結んだ頼継は上原城を急襲したのです。

頼継挙兵の知らせを受けた晴信は板垣信方(いたがきのぶかた)を先鋒隊として諏訪に送ると、自らも頼重の遺児寅王(とらおう)を伴い 出陣しました。

諏訪衆を味方につけた晴信は宮川の戦いで勝利すると、頼継の勢力を諏訪から駆逐して諏訪郡を手に入れたのです。 晴信は上原城を改修して板垣信方を城代に置き諏訪郡を統治していきました。

寅王は戦後間もなく死去した、もしくは僧籍に入ったとされています。 晴信は頼重の娘諏訪御料人(すわごりょうにん)を側室にすると、二人の間に産まれた四郎(勝頼)に諏訪氏を継がせたのです。

6、上伊那(かみいな)、佐久郡(さくぐん)への侵攻

信濃国上伊那、佐久郡
*信濃国上伊那、佐久郡への進出

諏訪郡を手に入れた晴信は駒井高白斎(こまい こうはくさい)に上伊那への進軍を命じ、藤沢頼親(ふじさわよりちか)の福与城(ふくよじょう) を囲みます。藤沢頼親は諏訪氏の一族で高遠頼継と手を結び晴信に抵抗していました。

武田軍に城を囲まれた頼親は降伏をして晴信に臣従しますが、天文13年(1545年)になると頼継とはかり再び晴信に反旗を翻したのです。 晴信は福与城に向け進軍しますが、高遠軍と藤沢頼親の義兄である小笠原長時(おがさわらながとき)の援軍を警戒して一旦甲斐に 戻ります。

帰国して軍勢を整えた晴信は、翌年になると再び上伊那に侵攻して高遠頼継の居城高遠城を急襲したのです。不意を突かれた頼継は城を捨てて 逃亡しました。

さらに晴信は藤沢頼親の福与城を囲みます。支城を落とされた頼親は晴信に降伏をして弟を人質に差し出します。 高遠頼継、藤沢頼親の降伏により上伊那を掌握した晴信は本格的に佐久郡への侵攻を開始しました。

佐久郡の有力国衆である大井貞清(おおいさだきよ)の内山城(うちやまじょう)を攻めこれを降伏させると、 続いて笠原清繁(かさはらきよしげ)の志賀城(しがじょう)を囲みます。晴信は力攻めはせずに金山衆に命じて水の手を断つ作戦にでます。

笠原清繁は関東管領上杉憲政に援軍を要請すると、憲政は金井秀景(かないひでかげ)を大将とする3千の援軍を送りました。 援軍の情報を得た晴信は別働隊5千を向かわせ小田井原でこれを撃退すると、討取った上杉勢の首300を志賀城の周囲に並べます。

援軍が来ないことを知った城兵の多くは城から打って出て討死しました。残った兵も全員捕えられ処刑されます。 さらに、城内に居た婦女子は生け捕りにされ奴隷として売却されました。

晴信の苛烈な処分は、信濃の国衆に対する見せしめのために行われたとされています。

7、小県郡(ちいさがたぐん)への侵攻と上田原(うえだはら)の敗戦

武田信玄対村上義清 上田原の戦い
*上田原の戦い

上伊那と佐久郡の大部分を手にした武田晴信は小県郡への侵攻を開始しますが、 北信濃で勢力を持つ村上義清もまた小県への進出を狙っていました。

村上義清は埴科郡(はにしなぐん)、水内郡(みのちぐん)、更科郡(さらしなぐん)を領有する信濃有数の国衆であり、 晴信にとっても油断ならない相手でした。

晴信は8千の兵を率いて小県南部に侵攻すると、葛尾城(かつらおじょう)の村上義清もまた7千の兵を上田平に進軍させます。 天文17年2月(1548年)上田原で両軍が激突しました!

「甲陽軍艦」によると、武田の先鋒板垣信方が村上勢の第一陣を切り崩し有利な状況で戦いを進めますが、勢いに乗った板垣勢が 敵陣深くまで入り込むと、逆に村上勢に囲まれ信方が討取られてしまったのです。

信方の死に動揺した武田軍は勢いを失います。これを好機とみた義清が攻勢をかけたことで形勢は逆転しました。 乱戦の中、甘利虎泰(あまりとらやす)も討死!晴信自身も傷を負いますが、小山田勢の活躍もあり撤退せずに戦場に踏みとどまります。

晴信を追い詰めた義清ですが、武田軍を総崩れさせるだけの余力はなく、村上軍が優勢なまま戦いは終了しました。 この日の戦闘による死者は武田勢が700、村上勢が300とされています。

晴信は20日ほど上田原に留まったのちに兵を引きあげました。

8、塩尻峠(しおじりとうげ)の戦いと筑摩軍(ちくまぐん)への侵攻

塩尻峠の戦い 武田信玄対小笠原長時
*塩尻峠の戦い

「上田原で武田軍敗れる!」衝撃の一報は瞬く間に信濃国内に広まりました。快進撃を続けてきた武田軍の敗戦は、服従して間もない 上伊那や佐久郡の国衆の動揺を誘います。

これを好機とみた信濃守護小笠原長時は、村上義清と連携して武田包囲網を形成します。 この動きに呼応して上伊那の藤沢頼親や諏訪衆の一部が晴信に反旗を翻したのです。

小笠原長時は諏訪に侵攻すべく軍を進めると、晴信もまた兵を率いて躑躅ヶ崎館から出陣しました。 小笠原勢は塩尻峠まで侵攻しますが、信濃との国境に位置する大井ヶ森(おおいがもり)に到着した武田軍は進軍を止めしばらく滞陣します。

武田軍の緩慢な動きは小笠原軍の油断を誘います。間者や物見の報告により塩尻峠の情報を得た晴信は密かに兵を動かし上原城に向かったのです。

入城した晴信は兵に休息をとらせると、その日の夜に塩尻峠に向けて軍を進めます。 武田の動きにまったく気づかない小笠原長時!

夜陰に紛れ小笠原勢に接近した武田軍は、夜明けとともに攻撃を仕掛けたのです。

寝入っていた小笠原の兵士たちは武田軍の朝懸けに混乱し次々と討たれます。 戦場から逃げ出した兵士たちも追討され多くの犠牲者を出したのです。

長時は武田の追撃を振り切り何とか林城にたどりつきました。 この日の戦闘で武田軍は1千の首をとったとされています。

小笠原長時を撃退した晴信は息を吹き返し、反乱した国衆たちを次々に服従させ、伊那と佐久郡を再び平定しました。 塩尻峠の戦いから2年後の天文19年(1550年)晴信は小笠原氏の居城林城に向け軍を進めます。

武田軍に支城を落とされた小笠原長時は林城を捨てて逃走!村上義清を頼り落ちていきました。 こうして小笠原氏を駆逐した晴信は筑摩郡を手に入れたのです。

9、砥石崩れ(といしくずれ)と村上義清の逃亡

武田信玄の敗戦 砥石崩れ
*砥石崩れ

小笠原長時を追い出し筑摩郡を支配域とした武田晴信は、村上義清を掃討すべく動きだします。 上田原の手痛い敗戦に学んだ晴信は、調略により村上軍を内部から崩す方針をとります。

晴信の勧誘に村上方の国衆 清野信秀(きよののぶひで)が内応を約束します。

村上義清が高梨政頼(たかなしまさより)と争っている間隙をぬって小県に侵攻した晴信は、村上方の砥石城(といしじょう)を囲みます。

砥石城は村上義清の居城葛尾城の支城で小県支配の拠点になっていた要地です。 晴信は砥石城に攻撃を仕掛けますが、城兵の激しい抵抗にあい多くの犠牲者を出します。

砥石城の攻略に手を焼く晴信はさらに苦しい状況に立たされます。 高梨政頼と和睦した村上義清の援軍が砥石城に向かっていたのです。

この情報を得た晴信は挟撃される危険を回避するため兵を引く決断をしました。 撤退する武田軍を村上勢が追撃します!

武田の殿(しんがり)部隊と村上勢との間で激しい戦闘がおこなわれ、武田方は横田高松(よこたたかとし)など1千の兵を失ったとされています。

上田原の戦いに続きまたしても村上義清に大敗した晴信ですが、翌年になると配下の真田幸隆(さなだゆきたか)が砥石城を奪う功績をあげます。 真田氏は小県郡に所領を持つ国衆でしたが海野平合戦で領地を失っています。その後、幸隆が晴信に仕え信濃先方衆として活躍していました。

小県に人脈のあった幸隆は砥石城に調略を仕掛け、わずか一日で城を奪ったとされています。 砥石城を失った村上義清は小笠原長時と連携して勢力の回復をはかります。

長時は1千の兵を率いて武田勢と戦い一時的に退却させる奮闘を見せます。 中塔城(なかとうじょう)に籠った長時はおよそ半年間抵抗を続けますが、最後は城を捨て逃亡しました。

晴信は調略により村上方の国衆の取り込みに成功すると、天文22年(1553年)水内郡、更科郡への侵攻を開始します。 村上方の城を次々に落とした武田軍は、義清の本拠地埴科郡に入ると葛尾城目指し進軍しました。

武田に寝返る者が相次ぎ、もはや戦える状況ではなくなった義清は越後へ逃亡したのです。

10、川中島の戦い

第四次川中島の戦い
*第四次川中島の戦い

村上義清が越後に逃亡すると、北信濃で武田晴信に抵抗する勢力は高梨政頼のみとなります。 高梨氏は政頼の祖父の代から越後長尾氏と姻戚関係を結んでおり、関東管領上杉氏との争いで窮地に陥った 長尾氏に援軍を送るなど、両家の間には強いつながりがありました。

凄まじい勢いで領土を広げる武田晴信の存在は、北信濃と領地を接する越後にとっても脅威であり、 もはや放っておくことができないと判断した長尾景虎は、信濃への出兵を決断します。

川中島の戦いに関しては「甲陽軍鑑」「川中島五箇度合戦之次第」「北越軍談」「妙法寺記(勝山記)」などの史料に 記載がありますが、信憑性に問題のある史料が多く、また合戦の年代や回数、兵力、戦いの様子なども異なります。 いまのところ通説となっているのは以下の通りです
・最初の戦いは天文22年
・天文22年~永禄7年までのおよそ12年間に5度の戦いが行われた
・永禄4年の4度目の戦いが最大の激戦となった

第一次川中島の戦い(布施の戦い 八幡の戦い)
天文22年8月(1553年)武田晴信と長尾景虎の最初の戦いが行われます。 村上義清の逃亡で葛山城を手に入れた武田軍は川中島に進出しますが、救援に駆け付けた 長尾軍との間で戦闘が行われます。武田の先鋒隊が崩され葛尾城を奪われると、 八幡の戦いでも武田軍は敗れ荒砥城(あらとじょう)も奪われました。 晴信は荒砥城に夜襲を仕掛け放火します。 景虎は塩田まで侵攻したあと越後に帰国したため、晴信も兵を引き甲府に戻りました。

第二次川中島の戦い(犀川の戦い)
武田晴信は調略を用いて越後勢の切り崩しをはかります。晴信の誘いに応じた北条高広(きたじょうたかひろ)と善光寺の別当栗田永寿(くりたえいじゅ)が 景虎から離反します。長尾景虎は北条城を攻撃して高広を服従させると、信濃に出兵して善光寺に着陣しました。

晴信は旭山城に籠城した栗田永寿を救援すべく3千の兵と鉄砲300、弓800を城に送ると、自身も兵を率いて陣を構えたのです。 景虎は旭山城の北に葛山城(かつらやまじょう)を築城して対抗します。

犀川(さいかわ)沿いで両軍の衝突があったものの勝敗はつかず、両軍はにらみ合ったまま膠着状態となりました。 この対陣は半年にも及んだため双方に厭戦気分が高まります。

兵糧が不足していた武田軍は、晴信が将軍足利義輝(あしかがよしてる)に働きかけ、今川義元の仲裁で和睦となりました。 和睦の条件は武田軍の善光寺平からの撤退と旭山城の破却だとされています。

第三次川中島の戦い
弘治3年2月(1557年)武田晴信が和睦を破り葛山城を攻撃したことで戦いが再開されます。 両陣営はともに相手方の城に攻撃を仕掛け落城させますが、晴信は景虎との直接対決を避け慎重に行動しています。 8月には上田原で戦闘が行われますが詳細は不明です。双方が帰国して戦いは終了となりました。

第四次川中島の戦い
川中島の戦いは12年にも及びますが、その間両軍とも川中島にはりついていた訳ではありません。 晴信と景虎は戦いを有利に進めるため様々な手をうっています。

武田晴信は天文23年(1554年)に下伊那に侵攻すると坂西氏(ばんざいし)や小笠原氏の勢力を一掃します。 翌年には筑摩郡に侵攻して木曽谷を支配する木曽義昌(きそよしまさ)を攻撃して服従させています。

晴信は義昌に娘を嫁がせると実質的に木曽を支配しました。 第二次川中島の戦いの頃には信濃の大部分を制圧していたことになります。

さらに、1552年~1554年にかけて北条、今川との間に甲相駿三国同盟を結んでいます。 この同盟により背後の心配がなくなった晴信は、弘治3年(1557年)西上野に侵攻して長野業正(ながのなりまさ)の箕輪城(みのわじょう)を攻めています。

一方、長尾景虎は第三次川中島の戦い後の永禄2年に上洛して正親町天皇、足利義輝に拝謁すると、翌年には北条氏康を討伐するため関東に出陣しています。 関東管領 上杉憲政(うえすぎのりまさ)を奉じた景虎は、永禄4年3月(1561年)10万の大軍で小田原城を囲みます。

この間に鶴岡八幡宮を訪れた景虎は、上杉憲政から関東管領を譲渡されると、名を上杉政虎(うえすぎまさとら)と改めました。

武田信玄(晴信は永禄2年に出家して信玄を名乗る)は同盟相手である氏康を援護するため小田原に援軍を送るるとともに、北信濃に侵攻して政虎を牽制しました。

この動きを知った政虎は越後に帰国すると、信玄と決着をつけるべく永禄4年8月(1561年)北信濃に向け出兵したのです。 1万3千の兵を率いた政虎は、善光寺に5千の兵を置くと、残りの8千で千曲川を渡河して妻女山(さいじょさん)に陣を構えます。

政虎が関東に出陣している間に川中島には武田の手によって海津城が築城され、春日虎綱(高坂弾正)が守りを固めていました。 海津城からの報告で政虎の動きを知った信玄は直ちに出陣して茶臼山(ちゃうすやま)に布陣します このときの武田の兵力は海津城の守備兵が3千、信玄の本隊が2万(もしくは1万7千)だとされています。

5日ほどにらみ合いが続くと最初に動いたのは信玄でした。武田軍は茶臼山を下ると千曲川を渡河して海津城に入ったのです。 信玄が危険を犯してまで海津城に移動した理由はよくわかっていません。

妻女山の政虎は武田軍の移動を見てもまったく動く気配を見せません。さらに10日が経過するとまたしても信玄が動きます。 信玄は部隊を二手に分け、妻女山の上杉軍を挟み撃ちにする作成をとります。いわゆる「啄木鳥戦法(きつつきせんぽう)」です。

啄木鳥(きつつき)戦法・第四次川中島の戦い
*啄木鳥戦法

啄木鳥は木の中にいる獲物をとるとき、裏側を突っつきびっくりして穴から出てきた獲物を捕食します。 この作成は山本勘助(やまもとかんすけ)の立案とされていますが真相は不明です。

暗闇に紛れ武田の別働隊1万2千が妻女山に向かうと、信玄の本隊8千は広瀬の渡しから渡河して八幡原に陣取ります。 夜明けとともに別働隊が妻女山を奇襲し、山から下りてくる上杉軍を信玄の本隊が殲滅する手はずでした。

しかし、この作戦は上杉勢に察知されます。 海津城から盛んに立ち昇る炊煙(すいえん)を見た政虎が、信玄の作戦を見破ったとされています。

政虎は夜のうちに密かに妻女山を下ると、武田への備えとして甘粕景持(あまかすかげもち)の兵1千を配置します。 上杉軍は雨宮の渡しから渡河して八幡原に布陣しました。

川中島に発生した濃い霧は両軍の姿を隠します。夜が明け八幡原一帯を覆っていた霧が晴れると武田軍は驚愕します!

目の前には万全の体制で布陣する上杉軍が居たのです。この光景を見た武田の兵は「天魔の所業なり」と叫び浮足立ちます。 作成の失敗を悟った信玄は陣形を「鶴翼」にして防御体制をとります。

一方、政虎は攻撃的な「車懸り」の陣形で信玄の首を狙います。上杉の先鋒 柿崎景家(かきざきかげいえ)隊が武田軍に襲い掛かり戦端が開かれました。 両軍の間で激しい戦いが展開されますが、勢いに勝る上杉軍が優勢となり、武田の部隊は次々に切り崩されます。

12段のうち9段が崩された武田軍は、信玄の弟典厩信繁(てんきゅうのぶしげ)、諸角豊後守(もろずみぶんごのかみ)、山本勘助が討たれ、信玄の嫡男義信(よしのぶ)も 負傷するなど危機的状況に追い込まれます。

総崩れ寸前の武田軍でしたが、ようやく妻女山の別働隊が八幡原に到着して上杉勢に襲い掛かったのです。 形勢は一気に逆転!政虎は全軍に退却命令を出します。

上杉の殿軍 甘粕隊が身を挺して武田の攻撃を防いだことで、上杉勢の被害は最小限におさえられました。 戦死者の数は史料によってまちまちですが、両軍とも3~4千人の兵を失ったとされています。

川中島の戦いは12年間で5度行われました。合戦に関しては総じて上杉が優勢であったようですが、合戦後には武田が勢力を回復して領地を獲得しています。 川中島は武田の支配するところとなり、信玄は北信濃の一部(越後との国境付近)を除き信濃国の大部分を領有したのです。

第五次川中島の戦い
第四次川中島の戦い以降、武田信玄は西上野の攻略を本格化させます。西上野の国衆に調略を仕掛け支配地域を広げていくと、 永禄7年(1564年)には飛騨へも侵攻しています。

信玄の飛騨進出は越中の攻略を見据えたものであり、これを放っておくことができない上杉輝虎(第四次川中島の戦い後に政虎から輝虎に改名) は川中島に出兵します。信玄も塩崎城に入り上杉勢と対峙しました。

両軍はおよそ二ヶ月間にらみ合いを続けますが、大きな戦闘はなく双方が兵を引いて終了しました。

11、西上野(にしこうずけ)への侵攻と武田義信の廃嫡

武田信玄は弘治3年(1557年)から西上野への侵攻を開始していますが、川中島をめぐる長尾景虎との抗争により十分な兵力を上野に 送ることができずにいました。また、箕輪城主長野業正を中心とする国衆たちの抵抗も激しく、西上野への侵攻は順調とはいえない状況でした。

永禄4年(1561年)長野業正が病没すると信玄は西上野での活動を本格化させます。 永禄6年(1563年)には上杉氏の岩櫃城(いわびつじょう)を落とすと、真田幸隆に与え吾妻郡の支配を進めていきます。

川中島の戦いが終結したことで余力ができた信玄は、永禄9年(1566年)に箕輪城に大軍を送ります。 このときの武田の兵力は2万ともいわれ、城主の長野業盛(ながのなりもり)は城に籠り徹底抗戦の構えを見せます。

父と同じく勇猛な武将であった業盛は武田軍の攻撃を何度もはね返しますが、兵力の差はいかんともしがたく、最後は自刃して果てました。

西上野での支配を進める一方で、信玄は今川の本拠地である駿河への侵攻を画策するようになります。 武田、今川、北条の間には同盟関係が構築されていましたが、 今川義元が桶狭間の戦いで討たれると、子の氏真は領国(駿河、遠江、三河)を維持することができず、三国間の力のバランスが崩れます。

今川から独立して三河を奪った徳川家康は遠江にもその勢力を広げていきます。 今川の弱体化を見た信玄は、三国同盟の破棄を視野に入れながら織田信長との同盟に踏み切り、信長の養女と勝頼の縁談を決めています。

この方針に反対したのが信玄の嫡男義信だとされています。義信の正室 嶺松院(れいしょういん)は今川氏真の妹であり、 義信は今川との同盟維持を主張したものと思われます。

武田と織田の同盟関係が強化されれば、今川と関係の深い義信の立場は微妙なものになります。 さらに、信長の養女を妻にする勝頼の存在は家督継承にも影響を与える可能性がありました。

今川との同盟を維持したい義信と、織田との同盟を進める信玄との間に対立が生じたものと思われます。 そんな状況で起こったのが「義信事件」でした。

「甲陽軍鑑」によると、義信と側近たちは信玄に対し謀反を企てますが、計画を知った飯富昌景が通報したことで露見します。 信玄は首謀者の飯富虎昌を処刑し、義信を東光寺に幽閉しました。

廃嫡となった義信は2年後の永禄10年10月(1567年)に自害します。 義信の側近 曾根周防、長坂源五郎も処刑され、その他義信の家臣たちが処刑、追放などの処分を受けました。

義信らによるクーデター計画が本当にあったのかは不明です。 信玄が外交方針を転換したことで、武田家中にも少なからず混乱が生じたことは想像できます。 義信を支持する勢力が大きくなる前に信玄が、先手を打ち不満分子を排除したとも考えられます。

義信が切腹をする2か月前、信玄は家臣団に命じ起請文を提出させています。 237名の家臣が信玄へ忠誠を誓う起請文を提出したとされ、小県の生島足島神社(いくしまたるしまじんじゃ)に奉納されました。

この起請文は義信の処分を決断した信玄が家臣団を引き締めるために提出させたと考えられています。

12、駿河への侵攻と三増峠(みませとうげ)の戦い

三増峠の戦い 武田信玄対北条氏康
*三増峠の戦い

駿河の今川氏真は、武田信玄が三国同盟を破棄して駿河に攻め込んでくることを警戒していました。 親今川派の義信が自害に追い込まれたことでその疑念は確信に変わります。

氏真は義信の正室であった妹 嶺松院の引渡しを武田に要求します。北条氏康からの圧力もあり、信玄は義信自害の翌月に 嶺松院を返しています。

武田家中の親今川派が粛清されたことへの報復として、氏真は甲斐への塩留めを実行します。 山国の甲斐は塩を生産することができず、他国からの輸入に頼っていました。

氏真は北条氏康と協調して輸送ルートを封鎖し、甲斐へ塩が入らないようにしたのです。 塩留めに関する書状が確認されていることから、塩留めは逸話ではなく史実だと考えられています。

氏真は武田の侵攻に備え、越後の上杉輝虎との同盟を画策します。 一方、信玄も徳川家康と交渉を行い、今川領の駿河と遠江を東西から攻めることで合意しました。

永禄11年4月(1568年)越後の本庄繁長(ほんじょうしげなが)が輝虎に反乱を起こします。輝虎は繁長の鎮圧に乗り出しますが、 信玄は繁長を支援して食糧などを送っています。

繁長の反乱により足下に火がついた輝虎は越後から動けなくなります。この隙を狙い信玄は駿河へ侵攻したのです。 永禄11年12月6日2万5千の兵を率いて甲府を発った信玄は9日に駿河に入ります。

氏真も薩?峠(さったとうげ)に兵を向かわせますが、離反する者が相次ぎ戦うことなく撤退します。 13日武田軍は今川の本拠地駿府を占領しました。 なすすべのない氏真は掛川城へ逃亡します。このとき氏真の正室 嶺松院は乗る輿もなく、大混乱の中で駿府館を追われたのです。

信玄の駿河侵攻と時を同じくして徳川家康も遠江に兵を進めます。井伊谷三人衆の先導で井伊谷に侵攻した徳川軍は 引馬城を落とし、氏真が籠っていた掛川城を包囲しました。

このとき、武田軍の秋山虎繁(あきやまとらしげ)が信濃から北遠に侵攻してきました。 天竜川を南下した秋山隊は見附まで進むと、徳川方の奥平隊と衝突したのです。

家康が信玄に猛抗議をしたことで秋山隊は信濃に戻りますが、この一件で信玄を信用しなくなった 家康は、上杉や北条との同盟を模索することになります。

三国同盟を破棄して駿河に侵攻した武田信玄に対し、同盟の当事者であった北条氏康は激怒して今川支援を表明します。 永禄12年1月(1569年)北条氏政が4万5千の兵を率いて駿河に侵攻すると薩?山に布陣しました。

信玄は山県昌景に駿府の守備を任せると、自らは久能城(くのうじょう)に入り北条軍と対峙します。 武田と北条がにらみ合う中、掛川城を囲んでいた家康は氏真と和睦を結び、掛川城を開城させたのです。

徳川と今川の和睦が成立したことで信玄は危機に直面します。徳川と北条に東西から挟撃されれば、さすがの信玄も打つ手はありません。 信玄は手に入れた駿府を放棄して甲斐に引き上げました。

駿河の駿東郡と富士郡を占領した北条に対し、信玄は何度も駿河遠征を試みます。 局地戦では勝利をおさめたものの、北条軍を追い出すまでには至らず、駿河を領有できずにいたのです。

氏康の介入により駿河から撤退した信玄は、突如北条の領国である関東に侵攻します。 永禄12年9月(1569年)信玄は2万の大軍で碓氷峠を越ると、上野から武蔵に侵攻して北条方の鉢形城、滝山城を攻撃しました。 さらに南下して、10月1日には北条氏の居城小田原城を包囲したのです。

北条氏康は籠城戦を選択して信玄との直接対決を避けます。信玄は小田原城へ攻撃をすることなく4日に撤退を始めました。 武田軍の撤退をみた氏康は、周辺の城から兵を集結させ追撃を開始します。

氏康は武蔵の諸城から集めた2万の兵を氏照と氏邦に任せると、三増峠に向かわせます。 撤退する武田軍を待ち伏せして、三増峠の兵と小田原城の軍勢とで挟み撃ちにする作戦でした。

物見の報告により三増峠に北条軍が布陣していることを知った信玄は、山県昌景の別働隊を志田峠から迂回させて、北条軍の側面をつく作戦を立てます。 三増峠を進む武田の本隊に北条勢が攻撃を仕掛けたことで戦闘が開始されます。

一進一退の攻防が展開される中、武田の重臣浅利信種(あさりのぶたね)が討死するなど戦いは激しさを増します。 坂上から攻撃をする北条勢が優勢かに思えたその瞬間、山県昌景の別働隊が北条軍に襲い掛かります。

側背をつかれた北条軍は武田の本隊との挟み撃ちにあったのです。伏兵による突然の攻撃に北条軍は混乱します。氏照と氏邦は軍勢を立て直そうとしますが、 逃亡する兵が相次ぎます。小田原から出撃した氏康、氏政の兵1万が戦場に到着する前に北条軍は総崩れとなりました。

勝利をおさめた信玄は三増峠を越え甲斐へと撤退していきました。

信玄の関東遠征は駿河での戦いを有利に進めるための作戦だったと考えられています。 上野から武蔵、相模へと侵攻した信玄は北条方の城を落とすような攻撃をしていません。 小田原城もわずか数日包囲しただけで撤退をしています。

初めから城を落とすつもりはなく、北条軍を牽制するための遠征でした。 その気になればいつでも関東に侵攻できるということを氏康に見せつけたのです。 氏康父子は駿河に配備していた軍勢の一部を関東に戻し守りを固めました。

駿東郡と富士郡の守りが手薄になったことを確認した信玄は、駿河に侵攻して北条方の蒲原城(かんばらじょう)を攻略すると、 駿河での戦いを有利に進めていったのです。

13、信玄の西上作戦と信長包囲網

武田信玄の西上ルート
*武田信玄の西上作戦

元亀2年10月3日(1571年)北条氏康が死去します。 跡を継いだ氏政が武田との同盟を望むと、両家の間で協議が行われ、翌年に同盟が締結されました。 この同盟により、駿河を手に入れた信玄は西に向けて動き出します。

信玄の西上は、従来の説によると上洛して天下に号令するためだとされてきましたが、その他にも遠江、三河の平定説や、 信長討伐説など諸説あります。

新しい史料が発見されない限りどの説が正しいのか判断することはできませんが、信玄が反信長勢力と連携しながら西上の準備を進めていったことは確かです。

信玄と信長は永禄8年(1565年)に信長の養女が勝頼に嫁ぎ同盟が結ばれて以降、良好な関係を構築していました。 駿河に侵攻したい信玄と、美濃を攻略して西に勢力を伸ばしたい信長の思惑が一致したため、同盟は維持されていたのです。

北条との同盟により、駿河を手に入れ背後の心配がなくなった信玄が西上を目指したことで、信長との関係は破綻しました。 信玄は足利義昭の誘いに応じ信長包囲網に加わります。信長の支援により15代将軍となった足利義昭ですが、信長の専横が顕著になると、 両者の関係は険悪なものとなります。

義昭は浅井長政、朝倉義景、松永久秀、三好党、西山本願寺、一向衆らと連絡を取り合い、信長を追いつめる計画を進めていました。 信玄もこの包囲網に加わると、各勢力と精力的に連絡をとり西上の準備を進めていったのです。

信玄は西上するにあたり、上杉謙信(1570年に輝虎から謙信に改名)への対策を入念に行っています。 謙信に背後を突かれないように、石山本願寺の顕如とはかり、加賀と越中の一向衆を蜂起させたのです。 謙信は一向一揆を鎮圧するため越中に釘づけになります。

元亀3年9月29日(1572年)山県昌景、秋山虎繁率いる先鋒隊が出陣すると、10月3日には信玄本隊も甲府を発ちます。 先鋒隊は信濃から三河を目指し、本隊は二俣街道から遠江へ侵攻しました。

信玄の西上を知った信長は激怒します。 「信玄は無道で侍の義理を知らない!二度と手を結ぶことはない」と述べています。

信長は将軍義昭を動かし、信玄と謙信の仲裁に動いていたとされています。 信長は「越後への出兵を止めていただき喜ばしい」という内容の書状を信玄に送っています。

信玄は西上する意図を隠し、越後へ出兵するとみせかけていたようです。 それを信じた信長が斡旋中であるから出兵しないよう信玄に依頼し、信玄が了承したので書状を送ったと推測できます。

この書状の日付が10月5日なので、10月3日に甲府から出陣した信玄に完全にだまされていたことになります。 信玄は出陣の直前まで信長と連絡をとりながら、西上作戦を隠し見事に信長を欺いたといえます。

甲府を発った別働隊は奥三河の奥平氏、菅沼氏を先導に進軍します。 徳川方の城を次々に攻略した先鋒隊は、途中で秋山虎繁を東美濃に侵攻させました。 山県昌景の部隊は遠江に侵入すると、信玄の本隊に合流しました。

本隊は北遠の天野氏を先導に遠江に侵攻すると、部隊を二手に分け武田勝頼に二俣城の攻略を命じます。 信玄本隊は天方城、飯田城を落とすと久能城を囲みますが、城兵の激しい抵抗にあったため囲みをとき 二俣城へ向かいました。

二俣城は遠江における要地であり、家康は重臣の中根正照(なかねまさてる)を置き守りを固めていました。 力攻めによる兵力の損失を懸念した武田軍は水の手を絶つ作戦にでると、たちまち城内は水不足に陥ります。 援軍の来ない二俣城は12月19日に降伏をしました。

14、三方ヶ原の戦い

三方ヶ原の戦い 武田信玄対徳川家康
*三方ヶ原の戦い

二俣城を落とした信玄は、天竜川を渡河して秋葉街道を南進します。 その先には家康の居城浜松城がありました。

信玄は浜松城を攻撃すると見せかけ、手前の欠下で向きを変え三方ヶ原台地を上っていきます。 信玄のこの行動は家康をおびき出すためのものでした。堅固な浜松城を力攻めにすれば味方の被害が多くなるため、 野戦で決着をつけたかったのです。

これに対し、浜松城の家康は城から出て戦うことを決断をします。 家康は、祝田の坂を下る武田軍を背後から追撃すれば勝機はあると考えたのです。

浜松城から出撃した徳川軍は武田軍を追い三方ヶ原台地を上ります。 坂を下っている武田勢を坂上から一気に攻め掛かる予定でした。

しかし、そこには陣形を整えた武田軍が待ち伏せしていたのです。 信玄の術中にはまってしまった家康は、大軍を相手に真正面から戦わざるを得ない状況になりました。

武田の足軽が投石をすると、兆発に乗った徳川勢が攻撃を仕掛け戦闘が開始されます。

午後4時頃に始まった戦いは短時間で決着がつき、兵力で勝る武田の圧勝で終わりました。 戦場から家康を逃がすため、夏目吉信(なつめよしのぶ)が身代わりになったとされています。

徳川勢は夏目吉信の他にも本多忠真(ほんだただざね)、鳥居忠広(とりいただひろ)、成瀬正義(なるせまさよし)が討死したとされ、 1千人余(300人とする説もあり)の戦死者をだしたと伝わっています。

三方ヶ原の戦いで完勝した信玄は、浜松城を攻撃せずに兵を北に進めました。窮鼠猫を噛むの例えもあるように、追い詰められた敵を力攻めすれば味方の損害も大きくなると考え、あえて攻めなかったと推測されます。

15、信玄の死

武田信玄死去 信濃駒場(こまんば)
*武田信玄死去・信濃駒場

三方ヶ原の戦い後、刑部で野営をしていた武田軍は1月3日に進軍を開始すると、三河に侵攻して徳川方の野田城を囲みました。

武田軍の快進撃は反信長派を勢いづかせ、元亀4年2月には将軍足利義昭が挙兵して信長に反旗を翻します。 さらに、松永久秀や三好党も反信長で足並みをそろえたため、信長は四方を敵に囲まれ窮地に立たされました。

信長を追い詰める絶好の機会でしたが、なぜか信玄は野田城の攻撃に1か月を費やします。 野田城は規模の小さい城で守備兵は500ほどしかいなかったいわれています。

2万とも3万ともいわれる武田の大軍が攻めかかれば数日で落とせるはずですが、信玄は力攻めせずに 金山衆に穴を掘らせて水の手を断ち落城させました。

野田城の攻略に時間がかかった原因については、信玄がすでに発病していた、もしくは朝倉義景の出陣を待っていたなどの説があります。

野田城を落とした武田軍は長篠城に入ると動きを止めます。信玄の病状が思ったほど回復しなかったため甲斐への帰国を決断しますが、 信玄は4月12日に信濃駒場で息を引き取りました(享年53)

信玄は自分の死を三年間隠すよう遺言を残したとされています。 跡を継いだ勝頼は信玄が生存しているように偽装しますが、1ヶ月もすると周辺の国に知られるようになり、 5月には家康が駿河に出兵しています。

信玄の死で窮地を脱した信長は義昭を追放すると、敵対する勢力を個別に撃破していきます。 打倒武田に執念を燃やす信長は天正3年5月(1575年)長篠の戦いで武田勝頼に完勝すると、 天正10年(1582年)木曽義昌(きそよしまさ)の離反を機に武田領に侵攻します。

勝頼主従は小山田信茂の裏切りにあい行き場を失うと、天目山麓の田野(たの)で自刃して果てました。 勝頼と嫡男信勝(のぶかつ)の死により甲斐源氏武田氏は滅亡しました。