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松平長忠(ながただ)と永正三河大乱

親忠の死後、安城松平家の家督は嫡男の長忠(ながただ)が継ぎます。

長忠は江戸時代の史料では長親(ながちか)と記されていますが、当時の文書には長忠もしくは道閲(どうえつ)という名で署名しています。道閲は長忠が出家したあとの法号です。

長忠の時代、駿河の今川氏が三河に攻め込む事件が起こります。永正3年(1506年)今川氏親(いまがわうじちか)と伊勢宗瑞(のちの北条早雲)の軍勢が三河に侵攻!今橋城を落とし牧野古白を討取ります。

今川勢の侵攻は2年にわたり繰り返されますが、その過程で岩津城が今川軍によって攻撃を受けました。

「三河物語」ではこの時の様子を「今川勢は四方から鉄砲を放ち天地を響かせ鬨の声をあげる」と記しています。

安城城の長忠も500の軍勢を率いて城から出ると、矢作川を越えて今川勢と一戦におよんでいます。

田原の戸田氏が今川から離反したという情報を得た今川勢が三河から兵を引き戦いは終わりました。

この合戦で多くの兵が討死した岩津松平家は没落し、代わって安城松平家が勢力を伸ばすことになったのです。

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