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土佐藩15代藩主 山内容堂(豊信)

土佐藩主 山内容堂(豊信)

*山内容堂(豊信)

土佐藩15代藩主 山内容堂(豊信)は、幕末の名君のひとりに数えられる人物です。
当時の山内家は、13代藩主 山内豊熈 14代藩主 山内豊惇が相次いでなくなるという不運にみまわれます。


豊惇の弟はまだ幼かったためお取りつぶしの危機となりますが、薩摩藩の助力と幕府の特別なはからいにより分家の山内容堂が15代藩主に迎えられました。ちなみに豊惇の弟が16代藩主 山内豊範になります。


藩主となった容堂は吉田東洋を起用して大胆な藩政改革に乗り出すとともに、徳川14代将軍の後継問題に関与することになります。容堂は薩摩藩島津斉彬らとともに一橋慶喜を推しますが擁立に失敗!大老の井伊直弼により隠居謹慎の措置を受け藩主の座を豊範に譲ることになります。


一方、容堂の信任を得て藩政改革に着手していた吉田東洋は、公武合体を推し進めたため、武市半平太(瑞山)の土佐勤王党と対立し、暗殺されてしまいます。


その後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると、容堂は謹慎を解かれ藩政に復帰して権力をふるうようになります。容堂の考えは公武合体であったため、尊王攘夷を唱える武市半平太を快く思っていなかったのでしょう。


八月十八日の政変以後、尊王攘夷派の勢いが衰えたとみると土佐勤王党を弾圧!武市半平太を切腹させ、土佐勤王党を壊滅に追い込みます。これ以後、土佐藩は山内容堂の信頼を得た後藤象二郎を中心に公武合体へと進んでいきます。


世の中の動きが尊王攘夷→尊王倒幕へと動くなか、容堂は徳川将軍家を擁護し続けました。元々、山内家は関が原の戦いの功績で土佐一国を与えられた経緯から、外様大名の中では親徳川であり、容堂の藩主就任時にも特別なはからいをしてもらったことから恩義に感じていたのでしょう。


しかし、薩長同盟により薩摩と長州が手を組むと倒幕への流れが加速!ついに土佐藩も薩長とともに出兵して戊辰戦争を戦うことになります。明治になってからの容堂は、内国事務総裁や議定などのポストに就きますが、辞任後は酒と女性におぼれる日々を過ごしたそうです。妾が数人いて、柳橋や両国などでも豪遊する姿が度々見られたそうです。


自分のことを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称していたほどお酒が大好きで、酒癖の悪さも有名でした。長年の不摂生がたたったのでしょうか、1872年脳溢血のため45歳でこの世を去りました。

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