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土佐藩上士 板垣退助(乾退助)

板垣退助(乾退助)

幕末から明治にかけて土佐藩からは優秀な人材が輩出されました。坂本龍馬、武市半平太、中岡慎太郎、岩崎弥太郎たちは下士と呼ばれ差別を受けていた階級の人たちです。


一方、上士と呼ばれる特権階級にも優秀な人材がいました。その中のひとりが乾退助(板垣退助)です。


乾退助は、1837年土佐藩士乾正成の子として誕生しました。坂本龍馬より2歳年下ということになります。乾家は馬廻り役をつとめる上士待遇の家柄であり、後藤象二郎とは幼馴染で、幼少時代からともに育った仲でした。


子供時代は勉強よりも喧嘩が好きで、悪がきとして名をはせますが、成長するにしたがい勉学にも励むようになり、吉田東洋にその才能をかわれ藩の要職に就くようになります。


しかし、乾退助は尊皇の思想が強かったため、山内容堂、吉田東洋がすすめる公武合体路線には消極的でした。吉田東洋が土佐勤王党に暗殺されたときも、思想の違いから激高することもなく冷静に受け止めたようです。


土佐勤王党に対する退助の思いは複雑であったようです。土佐藩では、長年にわたり上士と下士の対立構造がありました。勤王党に参加しているメンバーの多くは下士であり、上士である退助とは対立する関係です。


しかし、思想的には勤王党と同じ尊王であったため、山内容堂のすすめる公武合体をこころよく思ってはいませんでした。土佐を脱藩していた中岡慎太郎とも親交があり、しだいに尊王倒幕へ傾倒していきます。


そんな退助の複雑な心境は、土佐勤王党弾圧でもみることができます。山内容堂、後藤象二郎による土佐勤王党弾圧にも一時加わっていましたが、思想の違いから退助はこの弾圧に違和感をおぼえるようになり、後藤象二郎との間にも溝ができるようになります。


退助は、藩の職を辞退して江戸に遊学することになります。江戸で西洋式軍術を学んだのち、土佐に戻り藩の要職に復帰した退助は、尊王倒幕を主張し、土佐藩の藩論を倒幕に傾くよう尽力します。


密かに薩摩藩の西郷隆盛と会談を行い薩摩との間で密約を結び、土佐藩を戊辰戦争に参加させることに成功します。戊辰戦争では総督府参謀となり近藤勇の甲陽鎮撫隊と戦いますが、このときに板垣へと改名しています。


退助の祖先が武田信玄の重臣板垣信方であったことから、民衆の支持を得ようとして改名したようです。その結果、勝沼の戦いで甲陽鎮撫隊を撃滅して、さらに東北に進軍し会津藩を降伏させます。この戊辰戦争での活躍が評価され、新政府では参議に就任します。


1873年西郷隆盛らとともに征韓論を主張しますが、岩倉具視、大久保利通ら反対勢力に敗れ新政府の職を辞することになります。


板垣退助は愛国公党を結成して、民撰議院設立建白書を政府に提出します。その後土佐に戻った退助は、立志社を立ち上げ自由民権運動を展開し国会開設と選挙の実現に邁進します。


1881年自由党を結成して初代党首となり、1898年には大隈重信と協力して憲政党を結成して第一次大隈内閣の内務大臣に就任します。


しかし政権は短命に終わり1900年政界から引退をします。


1919年83歳でこの世を去りました。

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