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岩崎弥太郎と坂本龍馬

岩崎弥太郎写真(画像)

岩崎弥太郎は1834年岩崎弥次郎の長男として生まれました。龍馬よりも1歳年上ということになります。弥太郎の生家岩崎家は、土佐藩下士の中でも身分の低い地下浪人の家柄でした。


土佐藩には上士と下士の身分差別があることは以前説明しましたが、下士の中にも階級があり、地下浪人は一番下の階級でした。地下浪人とは、生活苦から郷士株を売却してしまった家に与えられる身分です。


郷士株を売ってしまったわけですから、本来は武士ではなく農民などの身分になるのですが、40年以上郷士であった家は、郷士株を売却後も地下浪人として武士の身分が与えられ名字帯刀を許されたのでした。


ちなみに、龍馬の本家は豪商才谷屋です。先祖が郷士株を買い、武士の身分を手に入れて分家したのが坂本家です。岩崎家や坂本家のように、江戸時代は武士の身分を売買できる制度になっていました。


これは、土佐藩だけでなく他藩や徳川幕府でも同じです。龍馬の師匠でもある勝海舟も先祖が御家人株を取得して武士の身分を手に入れました。江戸時代は、生まれによって一生身分が決まってしまうと思われがちなのでちょっと驚きです。もちろんお金で身分を買うわけですから、それなりの金額が必要です。それぞれの藩や購入できる株によっても違いますが、数千万円から数億円かかったようです。


生活が苦しかった岩崎家ですが、教育熱心な母のすすめで漢学者岡本寧浦の門下生として勉学に励み、念願の江戸遊学も実現します。しかし、父親弥次郎が揉め事を起こし急遽土佐に帰国せざるをえない状況になりました。


父親のトラブルがこじれ奉行所に訴えでたのですが、弥次郎側に不利な判決が下されてしまいます。怒った弥太郎は、奉行所の壁に不正があるという内容の落書きをしてしまったため、半年間投獄されたのち、故郷井ノ口村から追放されてしまうのでした。


故郷で暮らせなくなった弥太郎は近くの村で漢学塾を開きます。この弥太郎の漢学塾で学んだ人物に近藤長次郎と池内蔵太がいます。両名とも龍馬の親友であり、亀山社中でともに龍馬をサポートする役割を担います。


追放処分が解かれた弥太郎は吉田東洋が開いていた私塾への入門を許されます。この私塾には、後に土佐藩の実権を握ることになる後藤象二郎や福岡孝弟が学んでおり、特に東洋の甥である後藤象二郎と知り合えたことが弥太郎の運命を変えることになります。


しかし、頼みの綱である吉田東洋が、1862年土佐勤王党により暗殺されるという大事件が起こります。東洋派であった後藤象二郎や弥太郎たちは冷遇され、土佐勤王党の武市半平太が実権を握り藩政を動かすようになりますが、山内容堂の命により土佐勤王党が弾圧され、半平太が切腹!やがて、後藤象二郎、福岡孝弟たち東洋派が藩政を握るようになります。


土佐藩は外国との貿易を行うため長崎に土佐商会を設立、弥太郎も土佐商会勤務を命じられます。長崎ではすでに龍馬が亀山社中を設立して貿易を行っていました。後藤は龍馬の商才を必要とし、龍馬は土佐藩の経済力を必要としていました。


両者は1867年会談を行い提携に合意します。亀山社中は海援隊と名を改め、土佐藩のバックアップの基、貿易活動を続けていきます。弥太郎と龍馬が出会ったのはこの長崎だったようです。弥太郎の漢学塾で学んだことのある、近藤長次郎や池内蔵太から弥太郎の名前ぐらいは聞いていた可能性もありますが、面識を持ったのはこのころでしょう。


政務に忙しい後藤は、弥太郎に業務を任せるようになります。弥太郎は土佐商会の主任として外国との取引業務をこなし経験を積んでいきます。資金面で海援隊を支える弥太郎は、龍馬とも酒を酌み交わし将来の夢を語り合ったとされています。


そんな弥太郎と龍馬の関係も、龍馬暗殺により終わりを迎えます。ふたりが一緒に活動した期間はわずか一年弱ということになります。大坂に滞在していた弥太郎は龍馬の死を聞き何を思ったのでしょうか・・・・


龍馬暗殺後の弥太郎は、土佐商会での業績が認められ上士の身分が与えられ、さらに小参事のポストにまで出世します。土佐藩上士の中でも上位の役職ですから、大出世をしたことになります。しかし、1871年に廃藩置県が執行され藩がなくなり明治政府による中央集権化への流れが加速していきます。


土佐藩士であった弥太郎は、実業家への道を歩むことになります。九十九商会、三川商会、三菱商会を経て1874年に「三菱蒸汽船会社」の社長に就任します。台湾出兵や西南戦争の軍事輸送で業績を上げた三菱は明治政府から信頼を得て大きく成長していきます。


三菱の事業拡大を図る弥太郎でしたが、明治政府内の内部争いや、ライバル会社との熾烈な競争に追われる日々を過ごしたようです。地下浪人という低い身分から這い上がり、日本を代表する財閥である三菱の基礎を築いた弥太郎でしたが病魔には勝てませんでした。


1885年下谷茅町の自宅で胃癌のためその生涯を閉じました。享年52歳。

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