HOME
無料テンプレ
フォトショ
イラレ
Gmail
日本史
管領が将軍を追放!細川政元のクーデター 明応の政変(めいおうのせいへん)。応仁の乱後に政権を掌握した細川政元(ほそかわまさもと)が9代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)没後に10代将軍に就任した足利義材(あしかがよしき)を将軍の座から引きずり下ろしたクーデターが明応の政変です。政元は日野富子や政所執事の伊勢貞宗(いせさだむね)の協力を得て・・・
室町幕府管領 細川京兆家(けいちょうけ)とは。室町幕府将軍(足利氏)を支えるナンバー2の地位が管領で、最も多く管領に就任した一族が細川氏です。その細川氏の嫡流を京兆家(けいちょうけ)と呼んでいます。京兆とは細川氏嫡流が代々叙せられた官位右京大夫(うきょうのだいぶ)・・・
長良川の戦い斎藤高政(義龍)に敗れ鼻を削がれた斎藤道三。弘治2年4月(1556年)長良川で道三と高政が互いの存亡をかけ激突しました。国衆の支持を失い兵力の上では不利な道三でしたが、高政軍の竹腰道塵を討ち取るなど序盤は戦いを有利に進めました。しかし、高政が兵を率いて攻めかかると道三勢は次々討たれ、ついに道三も首を取られます。
斎藤高政(義龍)に命じられ孫四郎、喜平次を斬った日根野弘就(ひねのひろなり)。家督を継承した斎藤高政が1555年にふたりの弟を斬殺する事件を起こします。このとき孫四郎、喜平次を斬った人物が日根野弘就です。日根野弘就は武勇に優れた人物とされ、斎藤氏滅亡後も今川氏、浅井氏、織田氏に仕えその武功により、江戸時代は大名になりました。
美濃国守護代斉藤氏・斎藤妙椿(みょうちん)、妙純(みょうじゅん)の活躍。美濃国目代の家柄であった斎藤氏は土岐頼貞の時代に土岐氏に従属し、斎藤宗円(さいとうそうえん)の活躍により美濃守護代となります。代々守護代を継承した斎藤氏は斎藤妙椿、妙純の時代に全盛期を迎えました。
美濃国守護土岐氏。清和源氏とされる土岐氏とはどのような一族なのでしょうか?土岐氏の祖とされる光衡(みつひら)のひ孫頼貞(よりさだ)が建武の親政で美濃守護職に任命されると、以降土岐氏が代々美濃国守護を継承しました。頼康(よりやす)の時代には美濃の他に尾張、伊勢の守護も兼ね全盛期を築きますが、頼康の甥康行が「土岐康行の乱」を起こし尾張、伊勢を失ったのです。
明智光秀の前半生は謎だらけ!いつ生まれて何歳で死んだのか?明智光秀が織田信長に仕えるまでの前半生は謎が多くどのような経歴の人物なのかがよくわかっていません。光秀の生まれた年も諸説あり、「明智軍記」「当代記」という史料によると享年が55もしくは67となっています。織田信長よりも6歳上または18歳年上ということになります。