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管領が将軍を追放!細川政元のクーデター 明応の政変(めいおうのせいへん)

麒麟がくるがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識

応仁の乱で東軍の総大将をつとめた細川勝元の嫡男が聡明丸(そうめいまる)のちの政元(まさもと)です。

父勝元は1473年西軍との講和を模索する中、44歳で世を去ります。8歳の聡明丸は一族の政国(まさくに)の後見を受け京兆家を相続しました。

同じ年に8代将軍足利義政が嫡男義尚(よしひさ)に将軍職を譲っています。義尚は9歳で9代将軍に就任しますが、父義政が後見として権力を掌握しました。

聡明丸の母は山名宗全(やまなそうぜん)の養女であり、山名の血を引く聡明丸が細川家の家督を継いだことで両者に和平の機運が高まると、宗全の跡を継いだ山名政豊(やまなまさとよ)と和睦したのです。

13歳で元服した聡明丸は義政から一字を与えられ(偏諱 へんき)政元と名乗ります。

=政元の管領就任=
政元は生涯で4度管領に就任していますが、いずれも儀式のための就任であり、数日で職を辞したとされています(1486年、1487年、1490年、1494年)なぜ政元は管領にとどまらなかったのでしょう?

応仁の乱の結果、斯波氏は没落し、畠山氏は政長と義就が抗争を繰り返していました。

三管領の中で唯一細川氏だけが勢力を維持していましたが、政元は若年であり管領の職責をまっとうするのは無理だと判断したのかもしれません。

争乱の中、幕府の統治が揺らぎ管領という地位に魅力がなくなったとも考えられます。

将軍を支える管領の不在が幕府の求心力を低下させ下剋上の流れを加速させる要因になりました。

=義尚の死と明応の政変=
1487年将軍義尚は六角氏討伐のため自ら兵を率いて近江に出陣します。

幕府の命令を聞かない六角氏を討ち、幕府の権威を回復するための戦いでしたが、義尚は病を発症し陣中で没しました(享年25)

義尚には跡継ぎとなる男子がいなかったため、政元は義澄(義政の兄政知の子)を次の将軍につかせようと画策しますが、義尚の母日野富子と畠山政長が擁立した義材(義政の弟義視の子)が将軍となりました。

10代将軍となった義材(よしき)は自分を支持してくれた畠山政長と敵対する畠山基家(義就の子)を討つため河内に出陣しますが、その間隙を縫って政元がクーデターを起こしたのです。

事前に根回しをしていたこともあり、日野富子の支持を得た政元は義材を廃して義澄を11代将軍につかせることに成功します。

義材は捕らえられ幽閉処分(のちに脱出した)となり、畠山政長は政元が派遣した軍勢に攻められ自刃しました。

前代未聞のクーデターを成し遂げ権力を掌握した政元は近江に兵を送り敵対する比叡山延暦寺を焼き討ちにすると、大和国、河内国にも侵攻して勢力を拡大しました。

足利将軍家と明応の政変(めいおうのせいへん)

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