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美濃国守護土岐氏

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美濃国守護土岐氏系図(ときしけいず)*土岐氏系図

室町時代美濃国の守護を代々継承したのが土岐氏です。土岐氏は清和源氏の一族とされています。

清和源氏は平安時代の第56代清和天皇の孫経基が源の姓を賜り源経基(みなもとのつねもと)を名乗ったことに始まります。

経基の孫頼光(よりみつ)が美濃守となり、その頼光の孫国房が美濃国土岐群に土着して勢力を広げたと伝えられています。

国房から4代あとの光衡(みつひら)が土岐氏を称したことから土岐氏の祖とされています。

鎌倉幕府の御家人であった光衡は頼朝亡きあと執権北条氏に近づきます。光衡の孫光定(みつさだ)の妻は9代執権北条貞時(さだとき)の娘です。

北条氏と縁を結んでいた土岐氏ですが、光定の子頼貞(よりさだ)は後醍醐天皇の命に従い討幕の兵を挙げ、建武の親政では美濃国の守護に任命されます。以後美濃国守護は代々土岐氏が継承しました。

土岐氏一族で名が知れているのは、頼遠、頼康、康行の3名です。

==土岐頼遠(よりとお)==
頼貞の子で足利尊氏(あしかがたかうじ)に従い各地を転戦後、その武功が評価され父の死後土岐氏の惣領となり美濃国守護職を継承しました。

頼遠はバサラ大名としてもその名が知られています。バサラ大名とは旧来の権威を否定した新興武士のことで、佐々木導誉(ささきどうよ)や高師直(こうのもろなお)などが代表的な人物です。

その頼遠が京の都で大事件を起こします。1342年頼遠一行が笠懸の帰りに光厳上皇の行列と路上で鉢合わせになりました。

下馬をして道を譲るのが当時の慣例ですが、頼遠は酒に酔っていたこともあり下馬しませんでした。上皇の従者が咎めると頼遠は「院と言うか、犬というか、犬ならば射てしまえ」と言い放ち上皇の牛車に矢を射かけたのです(蹴飛ばしたとする説もあり)

上皇に対する狼藉を問題視した足利直義(ただよし)によって捕縛された頼遠は京都六条河原で斬首となりました。

頼遠のこれまでの功績により土岐氏は処罰を免れ家督は頼遠の甥頼康(よりやす)が継承しました。

==土岐頼康(よりやす)==
頼遠の事件後に土岐氏惣領となり美濃国守護職を継承した頼康は、観応の擾乱で足利尊氏、義詮(よしあきら)を支持します。

各地を転戦して武功を上げた頼康は、美濃の他に尾張、伊勢の守護職に任命され土岐氏の全盛期を築きました。

==土岐康行(やすゆき)==
頼康が1387年に病没すると土岐氏の惣領は甥の康行が継ぎました。土岐氏の中で一番名前が知られている人物が康行ではないでしょうか。歴史の教科書に「土岐康行の乱」としてその名前が登場するからです。

室町幕府3代将軍足利義満は将軍権力の強化を狙い有力守護大名の弱体化を画策します。美濃、尾張、伊勢3ヵ国の守護であった土岐氏もそのターゲットになりました。

義満は康行の3ヵ国守護を認めず、尾張の守護職は康行の弟満貞(みつさだ)に与えたのです。

これがきっかけとなり土岐氏で内紛が勃発すると、この争いに介入した義満は康行討伐を命じます。

追討軍との戦いに敗れた康行は没落し、美濃守護職は康行を追討した土岐頼忠(よりただ)に与えられました。頼忠は頼康の弟です。

この「土岐康行の乱」で土岐氏は伊勢守護職を失い、満貞も2年後に尾張守護職を解任されたため、土岐氏の支配は美濃一国のみとなったのです。

==康行の乱後の土岐氏==
乱後に美濃守護職を任命された頼忠ですが、一族内や国衆からの反発が強く統治は不安定でした。

頼忠の子頼益(よります)が土岐氏の惣領を継承すると、美濃で力を持っていた国衆の富島氏と、美濃国目代の斎藤氏を守護代に任命して国内の治世を任せます。

その後、美濃国守護職は何とか維持した土岐氏ですが、実権は守護代の富島氏と斎藤氏に移り、富島氏を駆逐した斎藤氏が守護代を独占して妙椿(みょうちん)、妙純(みょうじゅん)の時代に全盛期を迎えたのです。

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