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2026.10.24

千葉市立加曽利貝塚博物館「加曽利B式展(県南部編)」奥深い縄文土器の世界

千葉市にある加曽利貝塚は、日本最大級の縄文時代の貝塚として知られています。この遺跡の名前が付いた縄文土器には、加曽利E式と加曽利B式の2つがあり、それぞれ異なる時代の土器を分類する名称として使われています。

千葉市立加曽利貝塚博物館で開催されている企画展「加曽利B式展(県南部編)-加曽利の名を持つもうひとつの土器-」は、千葉県南部の遺跡から出土した加曽利B式土器に焦点を当てた展示です。

なぜ1つの遺跡から、異なる時代の土器に名前が付けられたのでしょうか。加曽利B式とE式には、どのような違いがあるのでしょうか。加曽利貝塚の発掘史から土器の分類方法、縄文人の暮らしを支えた土器の作り方や用途まで紹介します。

目次
  • 加曽利B式展(県南部編)-加曽利の名を持つもうひとつの土器-
  • 千葉県南部の遺跡から知る加曽利B式土器
  • 開催情報
  • 関連イベント
  • 加曽利B式と加曽利E式、2つの縄文土器の違い
  • 加曽利貝塚の発掘から生まれた2つの土器の名前
  • 加曽利B式とE式は何が違う?時代と特徴を比較
  • 縄文土器は何に使われていた?形と用途から知る縄文人の暮らし
  • 縄文土器はどうやって作られた?基本的な作り方と特徴
  • 深鉢・浅鉢・注口土器は何に使われていたのか
発掘現場を背景に、深鉢や浅鉢、注口土器、台付浅鉢など、さまざまな形の縄文土器を表現。土器の形や用途の違いから、縄文時代の暮らしと研究の広がりをイメージしたAIイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)
発掘現場を背景に、深鉢や浅鉢、注口土器、台付浅鉢など、さまざまな形の縄文土器を表現。土器の形や用途の違いから、縄文時代の暮らしと研究の広がりをイメージしたAIイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)

加曽利B式展(県南部編)-加曽利の名を持つもうひとつの土器-

千葉県南部の遺跡から知る加曽利B式土器

千葉市立加曽利貝塚博物館では、2025年から加曽利B式土器の資料収集や研究を進め、連続企画展を開催しています。今回は千葉市より南に位置する遺跡を対象に、出土した土器やその他の遺物から地域ごとの特徴を調べる展示です。

公式ページによると、主な対象は市原市の祇園原貝塚・西広貝塚、君津市の三直貝塚、富津市の富士見台貝塚、茂原市の下太田貝塚などです。東京湾沿岸の遺跡に加え、館山市の大寺山洞穴や勝浦市の長兵衛岩陰なども含まれています。

公開された展示資料一覧には、94点の資料が掲載されています。加曽利B式土器については、B1・B2・B3という3つの時期の資料が含まれ、深鉢、浅鉢、注口土器、台付浅鉢など、異なる形の器が取り上げられています。

土器以外にも、土偶や土製耳飾、下太田貝塚から出土した釣針やイノシシの牙で作られた腕輪など、動物の骨や角などを材料にした道具や装身具が展示資料に含まれています。縄文時代の生活に関わる資料も紹介される企画展です。

開催情報

展示名 令和8年度企画展示「加曽利B式展(県南部編)-加曽利の名を持つもうひとつの土器-」
会場 千葉市立加曽利貝塚博物館 企画展示スペース
会期 2026年10月20日(火)~2027年2月28日(日)
開館時間 9:00~17:00(入館は16:30まで)
観覧料 無料
休館日 月曜日(祝日の場合は開館し、翌日以降の祝日でない日が休館)、2026年12月28日~2027年1月4日

関連イベント

イベント名 ミュージアムトーク
日時 2026年10月25日(日)、11月22日(日)、2027年2月21日(日)
各日11:00~、14:00~(各回約1時間)
解説 加曽利貝塚博物館の学芸員
場所 加曽利貝塚博物館 企画展示スペース
参加費 無料
参加方法 当日、開始時刻までに博物館の玄関ロビーに集合

加曽利B式と加曽利E式、2つの縄文土器の違い

今回の展示名にある加曽利B式は、約100年前の加曽利貝塚の発掘調査に由来する土器の名前です。同じ調査からは、別の時期に属する加曽利E式という名前も生まれました。発掘の歴史と土器の分類方法を知ると、なぜ1つの遺跡が縄文時代の年代を調べる基準になったのかが分かります。

加曽利貝塚の発掘から生まれた2つの土器の名前

千葉市若葉区にある加曽利貝塚は、日本最大級の縄文時代の貝塚です。貝塚とは、当時の人々が食べた貝の殻などが長い年月をかけて積み重なった場所で、貝殻のほかにも動物の骨や土器など、生活に関わるものが残されています。

加曽利貝塚には、縄文時代中期に形成された北貝塚と、後期に形成された南貝塚があります。北貝塚は直径約140mのドーナツ形、南貝塚は長径約190mの馬のひづめに似た形をしており、2つを合わせると8の字のような形になります。貝塚とその周辺の集落跡は高い学術的価値が認められ、2017年には貝塚として初めて国の特別史跡に指定されました。

この遺跡が日本の考古学研究で広く知られるようになったのは、明治時代から大正時代にかけての調査がきっかけです。1887年に上田英吉が加曽利貝塚を学界に紹介し、1907年には東京人類学会による発掘が行われました。その後、1922年に大山柏らが測量調査を実施し、遺跡をA・B・C・Dの4地点に区分しました。

1924年には、東京帝国大学人類学教室がB地点、D地点に加え、新たに設けられたE地点を発掘しました。B地点とE地点で発見された土器の形や文様、土器が埋まっていた地層の違いなどが、その後の分類に役立ちました。

縄文土器は、形や文様などの特徴によって種類が分けられ、代表的な土器が発見された遺跡の名前を付けるのが一般的です。加曽利貝塚では、発掘場所をA・B・Cなどのアルファベットで区分していたため、B地点の土器をもとに「加曽利B式」、E地点の土器をもとに「加曽利E式」と名付けられました。

考古学者の山内清男は、こうした土器の分類と年代の整理を進め、1937年には加曽利E式を縄文時代中期後半、加曽利B式を後期中頃に位置づけました。

このように土器の形や文様の特徴を手がかりに分類したものを、考古学では「土器型式」と呼びます。同じ時期に作られた土器には共通した特徴があるため、別の遺跡で似た土器が出土した場合にも、その遺跡が使われた時期を考える手がかりになります。

土器型式を古い順から新しい順へ並べ、時代による変化を整理する方法を「土器編年」と呼びます。加曽利B式とE式も、こうした研究を通じて関東地方の縄文時代を調べる年代の基準として利用されてきました。その研究の歩みは、明治時代からの発掘調査や遺跡の保存活動などをまとめた加曽利貝塚の研究史で紹介されています。

加曽利B式とE式は何が違う?時代と特徴を比較

加曽利B式とE式では、土器の形や表面に施された装飾にも違いが見られます。加曽利E式の代表的な器は、背が高く、口が広がった深鉢形土器で、胴の部分にくびれがあり、口の周辺や胴に粘土を盛り上げた装飾や縄文などが施されたものもあります。

加曽利B式になると、深鉢に加えて、浅鉢、台付浅鉢、注口土器など、器の形の種類が豊富になります。浅い鉢の下に台を付けた台付浅鉢や、液体を注ぐための突き出た口を備えた注口土器のほか、用途の分かりにくい特殊な形の土器も含まれています。

加曽利B式は、土器の形や文様の変化をもとに、さらにB1式、B2式、B3式(細分化してB4式まで)に分けられます。B1式が最も古く、B2式、B3式の順に新しくなるため、これらを比較することで、加曽利B式の時代に土器がどのように変化したかを調べることができます。

縄文時代の人々は、土器の表面に縄を押し付けたり、細い線を引いたり、粘土を貼り付けて盛り上げたりして、さまざまな文様を施していました。こうした文様の配置や組み合わせは時代によって異なるため、考古学者は器の全体的な形だけでなく、口の縁や胴の装飾なども比較しながら、土器の型式を調べています。

縄文土器は何に使われていた?形と用途から知る縄文人の暮らし

加曽利B式の時代には、煮炊きに使う深鉢に加え、浅鉢や注口土器など、さまざまな器が作られていました。今回の展示に関連する縄文人の生活を理解するために、土器をどのように作り、何を入れるために使っていたのかを考えてみましょう。土器の形に目を向けると、食べ物の調理から特別な場面での使用まで、暮らしの幅広い側面に関わっていたことが分かります。

縄文土器はどうやって作られた?基本的な作り方と特徴

縄文土器は、粘土をこねて形を整え、火で焼き固めた器で、日本列島では縄文時代の初めから使われていました。食べ物を煮たり、水や食料を入れたりする道具として人々の生活を支えており、煮炊きにはクリやドングリなどの木の実をはじめ、魚や肉など、さまざまな食材が利用されていました。

土器の代表的な作り方の1つが、粘土を細長いひも状に伸ばして積み重ねる「輪積み」です。粘土で底の部分を作った後、その上にひも状の粘土を輪のように積み重ねて高さを増し、つなぎ目を指や道具でならしながら、器の内側と外側の形を整えていきます。

器の形ができたら表面に文様を付けますが、縄文土器という名前は、縄を押し付けたり転がしたりして付けた文様に由来します。装飾には縄のほかにも、棒状の道具で線を引いたり、貝殻を押し当てたりする方法が使われ、さまざまな文様が作られていました。

装飾を終えた土器は十分に乾燥させ、地面の上などに薪などの燃料とともに置いて、火を燃やして焼き上げます。後の時代のような高温の窯を使わずに焼くため、火の当たり方や燃え方によって焼き上がりの色が変わり、赤みのある土器や黒っぽい土器ができました。

粘土は乾燥しただけでは水に濡れると再び軟らかくなりますが、火で焼くと性質が変化し、水を入れても形を保つ器になります。縄文土器は、後の時代に高温で焼かれた陶磁器よりも一般に水を通しやすい性質を持ちながら、煮炊きや保存などに利用されていました。

こうした土器作りには、粘土の性質を理解し、形を崩さずに乾かして、割れないように焼き上げる経験が必要でした。底の形や器の厚さ、口の広がり方を変える技術も使われ、用途に合わせたさまざまな器が作られていたのです。

深鉢・浅鉢・注口土器は何に使われていたのか

縄文土器には、煮炊きや盛り付けなど、用途に応じたさまざまな形の器がありました。その代表的なものが深鉢型土器で、底から口に向かって広がる背の高い形をしており、主に食べ物の煮炊きに使われていました。

深鉢に比べて高さが低く、口が大きく広がった浅鉢形土器は、食べ物を盛り付ける用途などが考えられています。浅鉢には台の付いたものもあり、形や装飾にはさまざまな種類が見られます。

器の側面から注ぎ口が突き出た注口土器は、急須に似た構造を持ち、中に入れた液体を別の器へ注ぐことができました。具体的に何を入れていたのかは個々の資料によって研究が続いていますが、注ぎ口の形状から、液体を扱うための器と考えられています。

こうした器のほかに、縄文時代には特殊な形の土器も作られていました。器の上部に大きな取っ手のような部分を備えた釣手土器は、灯火具としての使用などが研究されており、複雑な形や装飾を持つ異形台付土器についても、日常的な調理器具とは異なる使い方が考えられています。

特殊な土器の用途を調べる際には、形だけでなく、発見された場所も手がかりになります。住居跡や墓、貝塚など、どこから出土したのか、周囲にどのような遺物が残されていたのかを合わせて調べることで、縄文人がその土器を何に使っていたのかを考えます。

土器の表面に残った焦げや付着物も用途を調べる手がかりとなり、焦げた痕跡から加熱に使われた可能性を考えたり、付着物に残る脂質(油脂などの成分)を分析して調理した食材を推定したりすることができます。青森県の三内丸山遺跡では、土器に付着した炭化物の脂質分析から、陸上の動植物や海の生き物など、多様な食材が煮炊きに利用されていたことが報告されています。

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