今回は戦国時代でも人気の高い浅井長政(あざいながまさ)さんと、その最期となった小谷城落城について解説していきますね。
この記事では、浅井氏がどのようにして北近江の覇者となり、なぜ小谷城落城とともに滅亡してしまったのかを史料をもとに時系列でわかりやすくお話しします。記事の後半では「もしも小谷城が落城せずに浅井長政さんが生きていたら歴史はどう動いたのか?」という、歴史好きなら一度は想像してしまうifの世界についても考察します。
この記事を最後まで読めば、浅井長政さんの生涯からもしもの歴史の結末まで、あなたが知りたかった答えがわかりますよ。それではさっそく見ていきましょう!
- 浅井氏の成り立ちと浅井長政さんの生涯
- 京極氏の被官から北近江の覇者となり小谷城落城で滅亡した浅井氏とは
- 小谷城落城の遠因ともされるが六角氏への従属で領国安定を図った浅井久政さんとは
- 野良田合戦で自立し小谷城落城まで激動の時代を駆け抜けた浅井長政さんとは
- 浅井長政さんを取り巻く外交関係と小谷城落城への影響
- 小谷城落城の火種にもなった六角氏との対立と従属を繰り返した歴史
- 小谷城落城まで軍事協力を続けた朝倉氏との旧縁と固い結びつき
- 婚姻同盟から決裂へ向かった織田信長さんとの関係が小谷城落城を招く
- 金ヶ崎の退き口から小谷城落城へ至る浅井長政さんの戦い
- 織田信長さんを急遽撤退させた金ヶ崎の退き口は小谷城落城への序章
- 姉川の戦いは一方的な敗北ではなく小谷城落城への長い消耗戦の始まり
- 姉川の戦い以降も約3年にわたり小谷城落城を防ぎ続けた浅井氏の動向
- 阿閉氏の離反と朝倉氏の滅亡が決定打となった小谷城落城と浅井氏滅亡
- もし小谷城落城を回避して浅井長政さんが生きていたら歴史はどう動いたか
- 小谷城落城を免れた浅井長政さんが織田信長さんと和睦して天下統一に貢献する未来
- 小谷城落城を回避し織田信長さんと敵対し続ければ強固な包囲網が天下統一を阻んだ可能性
- 小谷城落城を回避した浅井長政さんが近江と越前を制覇し織田信長さんと拮抗して戦国時代が長引く可能性

浅井氏の成り立ちと浅井長政さんの生涯
京極氏の被官から北近江の覇者となり小谷城落城で滅亡した浅井氏とは
浅井氏は近江国の北部を拠点にしていた一族なんです。もともとは浅井郡丁野郷(あざいぐんようのごう)という地域の国人(こくじん)領主で、そこを治めていた守護の京極(きょうごく)氏に仕える被官(ひかん)という立場でした。
やがて主君である京極氏の跡継ぎ争いが起きたとき、浅井亮政(すけまさ)さんが主導権を握って力をつけていったんですね。そこから浅井久政(ひさまさ)さん、浅井長政さんの3代、約50年にわたって小谷城(おだにじょう)を拠点に北近江を治める地域権力へと成長しました。
浅井氏の支配は、朝廷や幕府の高い官位による権威を前面に出すというより、地域の国人衆や村落、寺社との関係を調整しながら成り立っていました。そのため、力ずくで領地を支配するというよりも、地域社会の利害をまとめる調整役としての性格が強かったといえます。
そんな地域に根差した浅井氏も、最後は織田信長(おだのぶなが)さんとの戦いに敗れ、小谷城落城とともに滅亡の道をたどることになります。次からは、浅井氏の当主たちがどのような人生を歩んだのかを順番に見ていきましょう。

小谷城落城の遠因ともされるが六角氏への従属で領国安定を図った浅井久政さんとは
浅井久政さんは初代の亮政さんの跡を継いだ2代目の当主です。のちの時代に書かれた物語などでは、南近江の大きな勢力だった六角氏に屈してしまった弱腰なリーダーとして描かれることが多いんですね。
しかし残されている史料などを読み解いていくと、まったく別の姿が見えてきます。久政さんは六角氏の力がとても強かったため、正面から戦うのを避けてあえて従属することで、自分たちの領地を平和に保とうとする現実的な選択をしたのだそうです。
決して何もできなかったわけではなく、水争いが起きやすい高時川(たかときがわ)の水を調整したり、地域の人たちのトラブルを解決したりと、領国の安定に力を尽くしていたことがわかっています。
ただ、六角氏へ従属する証として、息子の長政さんに六角義賢(よしかた)さんから一文字をもらって賢政(かたまさ)と名乗らせたり、六角氏の重臣である平井定武(ひらいさだたけ)さんの娘を妻に迎えさせたりしました。こうした久政さんの我慢の政策は、独立して戦いたい浅井氏の家臣たちの間に不満をためてしまうことになります。
やがて家臣たちに担ぎ出された長政さんが実権を握り、久政さんは隠居させられてしまいました。この世代交代から始まる強気な外交路線が、のちの激しい戦いや小谷城落城へとつながる遠い原因になっていったのですね。

野良田合戦で自立し小谷城落城まで激動の時代を駆け抜けた浅井長政さんとは
浅井長政さんは久政さんの跡を継いで3代目の当主になった人物です。家臣たちの強い支持を受けて実権を握ると、まずは長年頭を悩ませていた六角氏との関係を断ち切るために立ち上がったんですね。そして永禄3年(1560年)に起きた野良田合戦(のらだがっせん)で六角氏の軍勢を見事に打ち破り、浅井氏の自立を勝ち取ったんです。
その後、勢いに乗る長政さんは織田信長さんと同盟を結びます。信長さんの妹であるお市(いち)さんを妻に迎え、協力して六角氏をさらに追い詰めていきました。若くして国を背負い、新しい同盟相手とともに領地を広げていく姿は、とても頼もしく見えたことでしょう。
しかし元亀元年(1570年)に信長さんが浅井氏と昔から縁の深かった朝倉氏へ攻め込んだことで、長政さんは大きな決断を迫られます。新しい同盟相手の信長さんか、古くからの付き合いがある朝倉氏か。長政さんは朝倉氏の側につき、信長さんと敵対する道を選びました。
その後、足利義昭(あしかがよしあき)さん、本願寺顕如(ほんがんじけんにょ)さん、武田信玄(たけだしんげん)さんらも信長さんと対立を深め、浅井氏は反信長勢力の重要な一角となっていったと考えられます。
この決断はのちの物語では「義理堅い名将の悲劇」や「激情的な裏切り」として語られがちですが、近江という様々な勢力がぶつかる場所で生き残るための苦渋の外交判断だったのでしょう。結果的にこの選択が、やがて小谷城落城とご自身の自刃(じじん)という結末へ向かっていくことになるんですね。

浅井長政さんを取り巻く外交関係と小谷城落城への影響
小谷城落城の火種にもなった六角氏との対立と従属を繰り返した歴史
浅井氏と南近江の大きな勢力だった六角氏との関係は、そのまま浅井氏の成長の歴史といってもいいくらい深く関わっているんですね。
初代の亮政さんの時代は六角氏が北へ攻めてくるのを必死に防いで対立し、2代目の久政さんの時代には争いを避けて六角氏に従属する道を選びました。そして3代目の長政さんの時代になると再び対立路線に戻り、野良田合戦で六角氏を打ち破って独立を果たしたのです。
さらに長政さんは織田信長さんと協力して六角氏を攻撃し、彼らを居城であった観音寺城(かんのんじじょう)から追い出すことに成功します。これで六角氏との問題はすべて解決したかのように見えますよね。でもそう簡単には終わらなかったんですね。
のちに長政さんが信長さんから離反して敵対するようになると、没落していたはずの六角氏の残党が南近江で再び立ち上がり信長さんの邪魔を始めました。浅井氏にとって六角氏は常に意識しなければならない存在であり、この複雑な勢力争いを乗り切るために信長さんや朝倉氏といった外の力と結びついたことが、結果的に小谷城落城という運命の火種になってしまったのだと思います。
小谷城落城まで軍事協力を続けた朝倉氏との旧縁と固い結びつき
浅井氏と越前国の朝倉氏の関係についてお話ししますね。浅井氏が南近江の六角氏と激しく対立していた時代から、朝倉氏とは縁があり、協力して助け合う関係にあったと言われています。
よく歴史の物語などでは「浅井と朝倉は固い同盟で結ばれていた」「織田信長さんと同盟を結ぶとき、朝倉氏には手を出さないという約束があった」と語られます。でも当時の史料には、そうした正式な条約や約束があったことをはっきりと証明する記録は見つかっていないのだそうです。
とはいえ、両家の結びつきがあったことは間違いありません。1570年に長政さんが信長さんから離反したあと、朝倉義景(あさくらよしかげ)さんは何度も軍勢を派遣して浅井氏を助けています。この朝倉氏からの援軍こそが、浅井氏が信長さんの激しい攻撃に何年も耐えられた最大の理由だったんですね。
だからこそ、天正元年(1573年)に朝倉氏が信長さんに敗れて滅亡してしまうと、浅井氏は大きな味方を失って孤立してしまいました。朝倉氏という強力な後ろ盾をなくしたことが、そのまま小谷城落城の決定的な要因になっていくのです。
婚姻同盟から決裂へ向かった織田信長さんとの関係が小谷城落城を招く
浅井長政さんと織田信長さんの関係は最初から敵同士だったわけではないんです。むしろ一定の期間はとても上手くいっている同盟関係でした。
信長さんが京都へ上るためには、美濃から近江を通る進軍路の安全を確保する必要がありました。そのため、北近江を押さえる浅井氏と良好な関係を結ぶことは、信長さんにとって非常に重要だったんですね。そこで長政さんと信長さんの妹であるお市さんが結婚することで両家は同盟を結び、永禄11年(1568年)には信長さんの上洛戦にともなって六角氏と対立していくことになります。
ところが元亀元年(1570年)に信長さんが朝倉氏への攻撃を始めたことで状況は一変してしまいます。長政さんにとっては新しい同盟相手の信長さんを選ぶか、古くから関わりのある朝倉氏を選ぶかという、とても苦しい選択を迫られることになりました。
結果として長政さんは朝倉氏の側につき、信長さんとの同盟は破綻してしまいます。この決断が信長さんとの全面戦争を引き起こし、最終的に小谷城落城へとつながる大きな転換点になってしまったのですね。

金ヶ崎の退き口から小谷城落城へ至る浅井長政さんの戦い
織田信長さんを急遽撤退させた金ヶ崎の退き口は小谷城落城への序章
1570年4月、織田信長さんは朝倉氏を攻めるために京都を出発し、敦賀方面へ進軍して手筒山城や金ヶ崎城を攻略しました。その後、朝倉氏の本拠へ進もうとしたところで、同盟相手だった浅井長政さんの離反が伝わり、背後を脅かされる危険が生じたんです。
信長さんは最初ウソの噂だと思ったようですが、事実だとわかるとすぐに撤退を決断し、朽木(くつき)というルートを通って急いで京都へ退却しました。これが有名な「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)」ですね。
後世の物語などでは、木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)さんが軍の最後尾を守った武勇伝として語られることが多いですよね。ただし、金ヶ崎からの撤退は信長さんが朽木越えで京都へ戻るまでの一連の退却であり、藤吉郎さん一人の活躍だけで説明するより、複数の武将や在地勢力との交渉を含めた危機回避として見たほうがいいと思います。
この素早い撤退によって信長さんは軍の主力となる部隊を失わずに済み、すぐに長政さんへの反撃の準備を始めることができました。長政さんからすればここで信長さんを逃してしまったわけで、これが小谷城落城へと続く長い戦いの序章となってしまったのですね。
姉川の戦いは一方的な敗北ではなく小谷城落城への長い消耗戦の始まり
金ヶ崎の退却から約2ヶ月後の1570年7月末、浅井長政さんと織田信長さんは姉川(あねがわ)を挟んで激しく激突します。これが有名な「姉川の戦い」ですね。
後世の物語などでは、信長さんと徳川家康(とくがわいえやす)さんの連合軍が圧倒的な力で浅井・朝倉軍を打ち破った大勝利として描かれることが多いですよね。実際の戦いも織田・徳川連合軍の勝利とされますが、浅井・朝倉軍がすぐに壊滅したわけではありません。小谷城の守りはかたく、信長さんが浅井氏を滅ぼすまでには、このあと約3年の戦いが必要になりました。
実際、浅井軍は一時は織田軍を押し込むほどの戦いぶりを見せました。最終的には織田・徳川連合軍が押し返して浅井側の横山城(よこやまじょう)を奪いますが、長政さんの主力部隊がこの戦いで全滅したわけではないんです。
この戦いによって、信長さんは小谷城を攻めるための重要な拠点となるお城を手に入れ、じわじわと浅井氏を追い込んでいくことになります。

姉川の戦い以降も約3年にわたり小谷城落城を防ぎ続けた浅井氏の動向
姉川の戦いで敗れたあと、浅井氏はすぐに滅亡してしまったわけではないんです。浅井長政さんたちは、このあとも約3年という長い期間にわたって小谷城を守り抜きました。
1570年の秋には浅井氏と朝倉氏の連合軍が京都の近くまで進軍して、織田信長さんを大いに慌てさせる場面もありました。これを志賀の陣(しがのじん)と呼びます。姉川の戦いのあとも、浅井氏にはまだまだ信長さんを脅かすほどの軍事力が残っていたんですね。
しかし1571年以降になると戦いの形が少しずつ変わっていきます。信長さんは佐和山城(さわやまじょう)といった浅井側の重要なお城を奪い、小谷城のすぐ近くにある虎御前山(とらごぜんやま)に前進基地を築いていきました。広い野原で軍勢がぶつかり合う戦いから、道や物資の補給ルートを塞いでいく厳しい消耗戦へと移っていったのだそうです。
それでも長政さんたちは朝倉義景さんからの援軍をもらったり、足利義昭さんなどの反信長勢力と連絡を取り合ったりして必死に持ちこたえていました。小谷城落城を防ぐため、周囲のお城と連携しながらギリギリの防衛戦を続けていたのですね。
阿閉氏の離反と朝倉氏の滅亡が決定打となった小谷城落城と浅井氏滅亡
長く続いた防衛戦も、いよいよ最後の時を迎えます。天正元年(1573年)8月、小谷城の西側にある山本山城(やまもとやまじょう)を守っていた重臣の阿閉貞征(あつじさだゆき)さんが、織田信長さんに寝返ってしまったんです。
この裏切りが浅井氏にとって致命的な打撃となりました。防衛線が大きく崩れ、一番の頼みの綱だった朝倉氏との連絡ルートが完全に断ち切られてしまったのだそうです。知らせを聞いて駆けつけた朝倉義景さんも信長さんの軍勢に大敗し、そのまま越前国へ逃れて自刃してしまいます。最大の味方を失った小谷城は、完全に孤立してしまいました。
ここから信長さんの激しい総攻撃が始まります。羽柴秀吉さん(この頃木下から羽柴に改姓)の部隊が京極丸を占拠し、浅井久政さんと浅井長政さんを分断しました。従来は『信長公記』に基づいて久政さんが8月27日、長政さんが翌28日に自刃したとされてきましたが、現在は久政さんが8月27日~29日の間、長政さんが9月1日に自刃したとする説明が広く用いられています。戦国大名としての浅井氏は、ここで滅亡を迎えました。
長政さんの長男とされる万福丸(まんぷくまる)さんは落城後に捕らえられ、処刑されたと伝わります。一方、妻のお市さんや茶々(ちゃちゃ)さん、初(はつ)さん、江(ごう)さんの3人の娘たちは、落城前後に助け出されています。小谷城落城はあっという間の出来事ではなく、補給ルートの破壊や味方の裏切り、そして外からの援軍が崩壊したことによる段階的な結果だったんですね。

もし小谷城落城を回避して浅井長政さんが生きていたら歴史はどう動いたか
小谷城落城を免れた浅井長政さんが織田信長さんと和睦して天下統一に貢献する未来
ここからは歴史の「もしも」のお話になります。もしも浅井長政さんが、織田信長さんとの長い戦いの途中で和解する道を選び、小谷城落城という悲しい結末を回避していたらどうなっていたのでしょうか。
当時の信長さんにとって、長政さんは妹のお市さんの夫であり、もともとは大切な同盟相手でした。もし長政さんが再び信長さんに従う姿勢を見せていれば、有能な武将としてもう一度迎え入れられていた可能性は十分にありますよね。長政さんは北近江の地理や、かつての味方である朝倉氏の事情にもとても詳しかったからです。
もし長政さんが織田陣営に戻っていれば、のちに北陸地方を任された柴田勝家(しばたかついえ)さんや豊臣秀吉さんと並んで、天下統一を推し進める主力部隊のトップとして大活躍していたはずです。信長さんの天下統一事業は、史実よりもずっと早く進んでいたのかもしれませんね。
そして信長さんが亡くなったあとも、お市さんとの間に生まれた優秀な子どもたちとともに、浅井氏は豊臣政権や江戸幕府の中で特別に高い地位を築いていたと考えられます。小谷城落城で滅亡するどころか、日本の歴史に浅井の名前を堂々と残し続ける大きな大名家になっていた未来があったのかもしれないですね。

小谷城落城を回避し織田信長さんと敵対し続ければ強固な包囲網が天下統一を阻んだ可能性
では、もう一つのもしもについて考えてみましょう。浅井長政さんが織田信長さんに降伏することなく徹底抗戦を選び、小谷城落城を回避し続けていたらどうなっていたでしょうか。おそらく信長さんにとっては最大のピンチが続いていたはずなんですね。
当時、足利義昭さんが中心となって作り上げた反信長陣営のネットワークはとても強力でした。もし長政さんが小谷城で粘り強く戦い続けて信長さんの背後を脅かしていれば、信長さんは自由に身動きが取れなくなります。そうなれば、歴史上で行われた比叡山にある延暦寺(えんりゃくじ)の焼き討ちなども、兵力を分散させることができずに実行できなかったかもしれません。
さらに東からは、最強と呼ばれる武田信玄さんが京都へ向かって進軍していました。史実どおり信玄さんが亡くなったとしても、長政さんは大坂の本願寺勢力や雑賀衆、西国の毛利氏と連携を深めゲリラ戦に持ち込みます。長政さんが近江で粘り強く戦い続けたことで各地の反信長勢力も再び息を吹き返します。
長政さんが六角氏の残党や阿波の三好勢を取り込めば、信長さんといえども相当手を焼くでしょう。激しい戦いの中で、秀吉さんや光秀さんのどちらかが最前線で命を落とすようなことがあれば、私たちが知る歴史とはまったく違うものになります。

小谷城落城を回避した浅井長政さんが近江と越前を制覇し織田信長さんと拮抗して戦国時代が長引く可能性
浅井長政さんが小谷城落城を回避したとすれば、まずは自分の足元を固めるはずです。当時、南近江(みなみおうみ)には織田信長さんに抵抗を続けていた六角氏の残党がいましたよね。長政さんは彼らをうまく自分の陣営に取り込み、近江国全体を完全に手中に収めるのだと思います。
さらに、織田信長さんとの戦いで疲弊していく朝倉氏に見切りをつけたらどうでしょうか。信長さんの攻撃で義景さんが命を落とす、あるいは義景さんの軍事的な決断の遅さに不満を持った朝倉氏の家臣たちが離反したタイミングで、長政さんが越前国へ攻め込むんです。
もともと浅井氏と朝倉氏は関係が深かったため、主君を失ったり混乱したりしている朝倉氏の有力な家臣たちを、長政さんなら自分の陣営にうまく引き入れることができるはずです。こうして朝倉氏家臣団を取り込み越前国を手に入れた長政さんは、北陸地方から近江国にまたがる勢力を築き上げます。
越前国と近江国を制覇し、琵琶湖の経済力も手に入れた長政さんが、足利義昭さんや本願寺勢力、毛利氏などと連携すれば、信長さんに十分に対抗できる勢力になります。しかし、信長さんも黙って押し潰されるような人物ではありませんよね。
武力で一気に勝てないと見れば、今度は将軍である義昭さんをうまく懐柔したり、朝廷を動かして有利な命令を出させたりと、あの手この手の政治的な駆け引きで長政さんたちの包囲網を切り崩しにかかるはずです。
近江を中心とした経済・軍事同盟と、朝廷の権威までも巧みに利用する信長さんのギリギリの攻防戦。こうなると簡単には決着がつかず、誰かが日本を統一するまでにかかる時間は史実よりもずっと遅れ、戦国時代そのものがさらに長く続いていたかもしれないですね。武将たちの力と知恵が激しくぶつかり合う、とてもロマンのあるifの結末だと思います。

