金ヶ崎の戦いとは、元亀(げんき)元年(1570年)に織田信長(おだのぶなが)さんが越前(現在の福井県)へ攻め込んだ際、同盟相手だった浅井長政(あざいながまさ)さんの裏切りによって挟み撃ちのピンチに陥り、京都へ急いで戻った撤退戦のことなんですね。金ケ崎の退き口(かねがさきののきくち)ともいいます。この記事では、信長さんがどのようにして包囲の危険から脱出したのか、手筒山城(てづつやまじょう)や金ヶ崎城(かねがさきじょう)、疋壇城(ひきだじょう)といったお城がどのように関わっていたのか、信長研究の基礎史料である『信長公記(しんちょうこうき)』や、同時代の日記である『言継卿記(ときつぐきょうき)』などの記録をたどりながら撤退戦の全貌を解説していきますね。
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織田信長さんを絶体絶命の危機から救った金ヶ崎の戦い(金ケ崎の退き口)の全貌
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金ヶ崎城のある越前へ向けた織田信長さんの朝倉攻めの経緯
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織田軍が最初に猛攻を仕掛けて陥落させた手筒山城
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豊臣秀吉さんが殿を務めて撤退路を確保した金ヶ崎城
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金ケ崎の退き口を成功に導いた迅速な撤退戦術と事後処理
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降伏した疋壇城の塀と矢蔵を破却
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浅井長政さんの離反による挟撃リスクを回避した朽木越えの決断

織田信長さんを絶体絶命の危機から救った金ヶ崎の戦い(金ケ崎の退き口)の全貌
金ヶ崎城のある越前へ向けた織田信長さんの朝倉攻めの経緯
そもそも、なぜ織田信長さんは金ヶ崎城のある越前国へ軍を進めたのか気になりますよね。
当時、室町幕府の将軍だった足利義昭(あしかがよしあき)さんを助けて京都へ上った信長さんは、各地の大名に対して京都へ挨拶に来るように呼びかけていたんです。しかし、越前の大名である朝倉義景(あさくらよしかげ)さんは、この呼びかけを無視し続けていたのですね。
朝倉さんは名門としての誇りもあり、力をつけてきた信長さんに従うのが納得できなかったのかもしれません。この状況のなかで、信長さんは、若狭国石山城主 武藤氏の討伐を名目として京都を出発し、若狭のルートを通って越前の敦賀(つるが)方面へと進軍を開始したのです。
織田軍が最初に猛攻を仕掛けて陥落させた手筒山城
越前の敦賀へ進軍した織田軍が、まず最初に標的としたのが手筒山城でした。
『信長公記』には、元亀元年(1570年)4月25日に織田信長さんが敦賀に入り、手筒山へ攻めかかったことが記されています。この戦いはとても激しいもので、織田軍は1370もの首級(しゅきゅう)を挙げたのだそうです。
ちなみに史料では「手筒山」と書かれていますが、現在の敦賀市では「天筒山城」が正式な名前として整理されています。
いつ築城されたのかは不明ですが、標高約170メートルの山に位置していて、お城の南東側は急斜面になっています。さらにその下方には中池見湿地(なかいけみしっち)が広がっていて、これが天然の防御線として機能していたと考えられています。
山頂からは敦賀湾(つるがわん)や、中池見湿地を広く見渡すことができるんですよ。海や湿地といった自然がどうお城を守っていたのか、当時の景色を想像しながら現地を歩いてみるのも良いですよね。

豊臣秀吉さんが殿を務めて撤退路を確保した金ヶ崎城
手筒山城の次に織田軍が向かったのが、今回の重要な舞台である金ヶ崎城です。
『信長公記』によると、織田軍の攻撃を受けた金ヶ崎城は4月26日に降参して開城しました。このあとは、木ノ芽峠(きのめとうげ)を越えて越前の奥へ進む計画だったようですが、同盟を結んでいた浅井長政さんが裏切ったという情報が入ってきたんですね。
長政さんが裏切ると、織田軍は前と後ろから敵に挟まれてしまうピンチになりますよね。そこで信長さんは、越前への進軍を諦めて急いで撤退することを決断したのです。
この時、撤退戦のなかで金ヶ崎城に残されたことが『信長公記』に見えるのが、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)さんです。ただし、秀吉さんが単独で殿(しんがり)を務めたと断定できる一次史料は乏しく、明智光秀(あけちみつひで)さんや当時摂津の守護だった池田勝正(いけだかつまさ)さんたちも撤退戦に関わったと考えられています。
金ヶ崎城は、岬の先端部分から敦賀湾を一望できる場所に本丸があったとされていて、尾根に沿って曲輪(くるわ)が連なる地形になっていました。海や尾根筋といった自然の地形を防御の資源として利用することで、秀吉さんたちは敵の足止めをして時間を稼ぐことができたのだと思います。

金ケ崎の退き口を成功に導いた迅速な撤退戦術と事後処理
降伏した疋壇城の塀と矢蔵を破却
金ヶ崎城が開城したのと同じ4月26日、織田軍の作戦にはもう一つの重要なお城が関わっていました。それが畿内と北陸を結ぶ交通の要所にあたる疋壇城です。
『信長公記』の記録をたどると、金ヶ崎城の開城と同時に、疋壇城も戦わずにお城を明け渡して退却したことが書かれています。
信長さんは、滝川喜右衛門(たきがわきえもん)さんと山田左衛門尉(やまださえもんのじょう)さんを派遣して、疋壇城の塀や矢蔵を引き下ろして破却させました。
現在もお城の跡には、石垣の一部や本丸と考えられる跡が残っていて、福井県の史跡になっているんですよ。

浅井長政さんの離反による挟撃リスクを回避した朽木越えの決断
浅井長政さんの裏切りが事実だとわかると、信長さんは作戦を中止して、撤退の道を選びましたが、どのようなルートで京へ戻ったのでしょうか?
当時の状況については『信長公記』だけでなく、公家が残した日記である『言継卿記(ときつぐきょうき)』にも記録があるんです。そちらには、浅井さんが六角氏などと協力して軍事行動を起こすという噂や、信長さんが若狭西路から京都へ逃れたことなどが書かれていて、複数の記録から当時の切羽詰まった様子が伝わってきますよね。

本来なら近江の北部を通って帰りたいところですが、そこはすでに敵の勢力圏になっていて通れない状況でした。そこで信長さんが選んだのは、若狭から山を越えて京都へ抜ける朽木越え(くつきごえ)というルートだったのです。『信長公記』にも、4月30日に朽木を越えて京都へ帰り着いたことが明記されているんですよ。
この険しいルートでの逃避行を助けたのが、地元の領主だった朽木元綱(くつきもとつな)さんです。一緒に撤退していた松永久秀(まつながひさひで)さんが元綱さんを説得したというお話も伝わっていて、地元領主の協力があったからこそ無事にピンチを切り抜けることができたのですね。
