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2026.03.13

名門六角氏の滅亡!織田信長の上洛を阻んだ六角承禎・義治親子の逃亡劇

織田信長(おだのぶなが)さんの上洛(じょうらく)は、室町幕府(むろまちばくふ)の将軍になる足利義昭(あしかがよしあき)さんを支援することで大義名分(たいぎめいぶん)を得て、道中に立ちふさがる名門の六角氏(ろっかくし)を打ち破ることで達成されました。この記事では、織田信長さんがどのようにして障壁であった六角氏との激闘を制し、京都への道を切り開いたのかを詳しく解説していきますよ。

目次
  • 織田信長の上洛への道!天下布武に向けた最大の試練
  • 織田信長さんと足利義昭さんが協力して上洛への大義名分を得た背景
  • 名門の出自である六角氏の領地が近江国で上洛の難所だった理由
  • 六角承禎(義賢)さんが織田信長さんの上洛要請を拒否して敵対の道を選んだ決断
  • 六角義治さんが観音寺城の戦いで敗退して権力を失った経緯
  • ゲリラ戦を続けるもついに六角氏が滅亡して上洛を果たした結末

名門六角氏の滅亡!織田信長の上洛を阻んだ六角承禎・義治親子の逃亡劇 イメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
名門六角氏の滅亡!織田信長の上洛を阻んだ六角承禎・義治親子の逃亡劇 イメージ画像(生成AI) 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

織田信長の上洛への道!天下布武に向けた最大の試練

織田信長さんと足利義昭さんが協力して上洛への大義名分を得た背景

織田信長さんと足利義昭さんが協力したのは、上洛して天下を平定するための「正当な理由」がお互いに必要だったからです。

織田信長さんが京都を目指すためには、ただ武力で攻め込むだけでは周りの大名(だいみょう)たちから反感を買ってしまいます。皆さんが当時の武将だったらどう思いますか?勝手に自分の領地に軍隊が入ってきたら怒りますよね~。そこで必要だったのが、室町幕府の次期将軍である足利義昭さんを助けるという大義名分なんです。

一方の足利義昭さんも、お兄さんである13代将軍の足利義輝(あしかがよしてる)さんが暗殺されてしまい、自分が将軍になるための強い武力を持った協力者を探していたんですよ。

この二人の利害が一致したことで、織田信長さんは足利義昭さんを奉じて京都へ向かうことになります。この協力関係が織田信長さんの天下布武(てんかふぶ)への大きな第一歩だったことがよくわかるんですよ。お互いの目的を達成するための最強のタッグだったんですね。

1568(永禄11)年織田信長 足利義昭を奉じて上洛 イメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
1568(永禄11)年織田信長 足利義昭を奉じて上洛 イメージ画像(生成AI) 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

名門の出自である六角氏の領地が近江国で上洛の難所だった理由

六角氏の領地である近江国(おうみのくに)が難所だったのは、京都へ向かうための主要なルートを完全に塞いでいたからです。さらに六角氏は由緒ある名門だったため、織田信長さんの命令に簡単に従うような相手ではなかったんですね。

六角氏がどのような一族なのかというと、天皇の血を引く宇多源氏(うだげんじ)の流れをくむ佐々木氏の嫡流(ちゃくりゅう)という、ものすごい名門なんです。

鎌倉時代(かまくらじだい)からずっと近江国の南半分を治めてきた、歴史と権威のある守護大名(しゅごだいみょう)なんですよ。代々続く名家としてのプライドがあったので、新興勢力である織田信長さんを下に見ている部分もあったのだと思います。

織田信長さんのいる美濃国(みののくに)から京都へ行くためには、どうしてもこの近江国を通る必要があります。近江国には琵琶湖(びわこ)があり、水と陸の交通網が発達した大動脈でした。ここを通らずに上洛するのは絶対に無理ですよね~。

由緒正しき名門が強固な地盤を築いている六角氏の領地を通らなければならないことが、天下布武を目指すうえでの大きな壁になっていました。

六角承禎(義賢)・義治に対し足利義昭の上洛に従うよう書状を出す織田信長 イメージ画像 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
六角承禎(義賢)・義治に対し足利義昭の上洛に従うよう書状を出す織田信長 イメージ画像(生成AI) 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

六角承禎(義賢)さんが織田信長さんの上洛要請を拒否して敵対の道を選んだ決断

六角承禎(ろっかくじょうてい)さんが織田信長さんの上洛要請を拒否したのは、京都を支配していた三好三人衆(みよしさんにんしゅう)と手を結んでいたからです。

織田信長さんは足利義昭さんを奉じて京都へ向かうため、近江国を通る許可と協力を六角氏に求めました。しかし実質的な当主だった六角承禎さんはこのお願いをあっさりと断ってしまいます。当時京都で権力を握っていた三好氏や松永久秀(まつながひさひで)さんたちは足利義昭さんと敵対していました。

六角氏と三好氏は敵対していた時期もありましたが、この頃は協力関係にあり、ここで織田信長さんに味方することは政治的な繋がりを裏切ることを意味していたんです。

それに加えて名門である六角氏からすれば、新興勢力の織田信長さんを少し甘く見ていた部分もあったのだと思います。自分たちの居城である観音寺城(かんのんじじょう)は難攻不落の名城ですし、戦になっても絶対に負けないという自信があったのですね。こうして六角承禎さんは上洛要請を拒否し、織田信長さんとの全面対決という敵対の道を選ぶことになりました。

近江国の戦国大名 六角承禎(義賢) 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
近江国の戦国大名 六角承禎(義賢)のイメージ画像(生成AI) 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

六角義治さんが観音寺城の戦いで敗退して権力を失った経緯

六角氏の当主はお父さんの承禎さんから家督を譲られていた義治(よしはる)さんです。義治さんが観音寺城の戦いで敗退したのは、重要な支城であった箕作城(みつくりじょう)が織田信長さんの猛攻によりわずか1日で落城し、戦意を喪失して逃亡したからです。

織田信長さんは数万ともいわれる大軍を率いて近江国へ侵攻しました。迎え撃つ義治さんと承禎さんは、難攻不落の観音寺城に籠城(ろうじょう)して徹底抗戦する作戦をとります。しかし織田軍は本城である観音寺城を直接狙わず、まずは防衛の要であった箕作城に激しい攻撃をかけました。

箕作城攻めには豊臣秀吉(とよとみひでよし)さん、秀長(ひでなが)さん兄弟も兵を率いて参戦しています。城の守りは固く、織田軍も多数の死傷者を出したことから、夜襲に切り替えて猛攻を加えました。

不意をつかれた箕作城は陥落!頼みにしていた支城があっけなく破られたことで、観音寺城にいた義治さん、承禎さんたちも「このままでは全滅する」と恐れをなしてしまい、なんと戦わずに夜逃げしてしまったんです。大名が戦わずにお城を捨てて逃げるなんてどう思いますか?

実は、六角氏は長い歴史の中で何度もピンチを迎えています。敵に攻められたり、内紛で争ったり...城を捨てて甲賀(こうか)などに潜伏することも度々ありました。そのたびに体制を立て直しゲリラ戦を展開して奪還するということを行っています。

なので、同じように逃亡したんですね。でも今回は相手が悪かったです。信長さんの圧倒的な軍事力の前に、家臣たちは次々と寝返り、六角氏は近江国における権力を失うことになりました。

織田信長の上洛戦 六角氏の支城「箕作城」に夜襲を仕掛ける織田軍 イメージ画像(生成AI) 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)
織田信長の上洛戦 六角氏の支城「箕作城」に夜襲を仕掛ける織田軍 イメージ画像(生成AI) 作成:junk-word.com(爆点日本史編集部)

ゲリラ戦を続けるもついに六角氏が滅亡して上洛を果たした結末

観音寺城から逃げ出した六角承禎さんや義治さんたちは、甲賀の山奥へ逃げ込みました。そこで地の利を活かしたゲリラ戦を展開し、織田信長さんの上洛やその後の動きを何度も邪魔しようとします。

時には朝倉義景(あさくらよしかげ)さんや浅井長政(あざいながまさ)さんといった他の大名たちと手を結び、数年にわたってしぶとく抵抗を続けたんですよ。かつて近江国を支配した名門の意地を感じますよね~。

しかし信長さんは豊臣秀吉さんや柴田勝家(しばたかついえ)さんたち優秀な家臣に命じて、六角氏に協力する勢力を少しずつ追い詰めていきました。最終的に味方を失った六角氏はすべての拠点を奪われ、大名としての歴史に幕を下ろすことになります。

障壁であった六角氏を排除したことで、信長さんは足利義昭さんを奉じて無事に京都への上洛を果たし、天下布武への道を突き進んでいくことになるんですね。