坂本龍馬や板垣退助を生んだ幕末の土佐。その歴史をさかのぼると、関ヶ原の戦い後に土佐へ入った山内家と、16代にわたる藩政へ行き着きます。高知城歴史博物館の企画展「土佐藩と山内家―土佐20万石の260年―」は、山内家に伝わった歴史資料から江戸時代の土佐をたどる展示です。ところで、土佐藩とは現在のどこにあったのでしょうか。「20万石」と呼ばれる一方で、「24万石」という数字も残るのはなぜなのか。展示を入口に、土佐藩の基礎から幕末の人物を紹介します。
- 山内家の資料からたどる土佐藩260年
- 長宗我部から山内へ引き継がれた土佐
- 刀剣・地球儀・『万葉集』研究まで残した山内家資料
- 開催情報
- 関連イベント
- 土佐藩をもっと深く知る4つの視点
- 土佐藩はどこ?現在の高知県とほぼ重なる土佐一国
- 土佐藩の石高は20万石?24万石?2つの数字が残る理由
- 土佐山内家は外様大名なのに「松平」を名乗った
- 坂本龍馬だけではない幕末土佐藩の有名人

山内家の資料からたどる土佐藩260年
長宗我部から山内へ引き継がれた土佐
1600年の関ヶ原の戦い後、長宗我部氏に代わって山内一豊が土佐一国を与えられました。翌1601年に一豊が土佐へ入り、山内家による統治が始まります。その後、明治維新を迎えるまで16代の藩主が土佐を治めました。
展示公式ページによると、企画展では山内家に伝来した資料を通して、土佐藩の歴史とその特色を紹介しています。長宗我部元親・盛親父子が行った検地の記録「長宗我部地検帳」も取り上げられており、領主が交代しても前の時代の記録が受け継がれていったことを示す資料です。
ほかにも、江戸時代の「土佐国絵図」、4代藩主山内豊昌が使用した「兎耳形兜」、15代山内豊信(容堂)の詩書、16代山内豊範の肖像などが出品されています。資料の年代は中世から大正時代まで広がり、藩主家の歩みだけでなく、土佐で育った学問や文化も展示の題材となっています。
刀剣・地球儀・『万葉集』研究まで残した山内家資料
展示資料は武具や藩政文書だけではありません。江戸の天文暦学者・渋川春海と土佐の谷秦山が交わした往復書簡集「天柱密談」、天文学者の川谷薊山が制作したと伝わる「蒔絵地球儀」、国学者・鹿持雅澄がまとめた『万葉集古義』の草稿なども紹介されています。
また、4代藩主山内豊昌の「兎耳形兜」や毛利勝永所用と伝わる陣羽織などをもとにしたレプリカの着用体験も用意されています。音声ガイドには標準語・英語に加えて土佐弁版があり、スマートフォンなどを館内Wi-Fiへ接続して利用できます。
開催情報
| 展示名 | 企画展「土佐藩と山内家―土佐20万石の260年―」 |
|---|---|
| 主催 | 高知県立高知城歴史博物館(公益財団法人土佐山内記念財団)、高知県、よさこい高知文化祭2026高知県実行委員会、文化庁、厚生労働省 |
| 会期 | 2026年9月19日(土)~12月6日(日) |
| 開館時間 | 9:00~18:00。日曜日は8:00~18:00 |
| 会場 | 高知県立高知城歴史博物館3階特別展示室 |
| 観覧料 | 800円(常設展含む)、団体20名以上640円。高知城とのセット券1,040円。高校生以下などは無料 |
| 休室日 | 2026年10月19日(月)・20日(火)は一部展示資料入れ替えのため休室 |
関連イベント
| イベント名 | 記念講演会「近世前期の幕府政治と山内家」 |
|---|---|
| 日時 | 2026年9月26日(土)14:00~15:30 |
| 講師 | 三宅正浩氏(京都大学大学院文学研究科准教授・高知県史編さん専門部会委員) |
| 場所 | 高知県立高知城歴史博物館1階ホール |
| 定員 | 80名(申込先着順) |
| 参加費 | 無料 |
| 申込方法 | 電話、FAXまたは館内受付で申し込み |
| イベント名 | 学芸員による展示解説 |
|---|---|
| 日時 | 2026年9月26日(土)、10月11日(日)、11月3日(火・祝)、11月29日(日)。いずれも10:00から約30分 |
| 場所 | 高知県立高知城歴史博物館3階特別展示室 |
| 参加費 | 無料(要観覧券) |
| 備考 | 申込不要。当日3階展望ロビーに集合 |
土佐藩をもっと深く知る4つの視点
展示に登場する「土佐一国」「20万石」「山内家」「幕末」という言葉の背景を知っておくと、260年という長い歴史を整理しやすくなります。ここからは展示内容とは分けて、土佐藩の石高、徳川家との関係、幕末に活躍した人物を紹介します。
土佐藩はどこ?現在の高知県とほぼ重なる土佐一国
江戸時代の土佐藩は、土佐国一国を領地とした藩です。土佐国はおおむね現在の高知県に当たり、藩政の中心には高知城とその城下町が置かれました。
戦国時代には長宗我部元親が土佐を統一しました。その子・盛親は関ヶ原の戦いで西軍に属して領地を失い、代わって東軍側の山内一豊が土佐国主となります。一豊は1601年に浦戸城へ入り、その後、大高坂山に高知城を築いて城下町の整備を進めました。
明治4年(1871)の廃藩置県で土佐藩は廃され、高知県が置かれました。明治9年(1876)には阿波国、現在の徳島県側が一時高知県へ編入されましたが、1880年に分離され、現在につながる高知県の県域が成立しました。
土佐藩の石高は20万石?24万石?2つの数字が残る理由
今回の展示名には「土佐20万石」とありますが、高知県の歴史では、山内一豊が「土佐24万石」の国主になったとも説明されています。この2つの数字は、基準となった石高の性格が異なるためです。
幕府が公認した表高は20万2600石余でした。展示名や文化庁の「土佐藩主山内家墓所」の解説で使われる20万石は、この表高をもとにした表現です。
一方、長宗我部氏の検地に基づいて把握された石高は24万8300石余とされています。このため、土佐藩については幕府公認の「20万石」と、長宗我部検地をもとにした「24万石」という2つの数字が使われてきました。
石高は土地の広さそのものではなく、その土地からどれほどの米が取れるかを基準に領地の生産力を表した数字です。大名の格式や軍役などとも関わったため、江戸時代の大名を理解するうえで重要な尺度でした。
新田開発が進んだ結果、幕末維新期の実際の石高は49万石余に達したとする記録もあります。幕府が認めた表高と、領内で実際に把握された石高には大きな差が生まれていました。
土佐山内家は外様大名なのに「松平」を名乗った
関ヶ原の戦い後に徳川家康から土佐一国を与えられた山内家は、江戸幕府の大名区分では外様大名でした。徳川家の一族や、関ヶ原以前から徳川氏に仕えていた譜代大名とは異なる立場です。
その関係を考える手がかりになるのが、2代藩主山内忠義です。1610年、忠義は2代将軍徳川秀忠から土佐守に任じられ、「松平」の称号を名乗ることを許されました。当時の徳川家は、有力な外様大名との関係を強めるため、松平の称号や将軍の名の一字を与えることがありました。
坂本龍馬だけではない幕末土佐藩の有名人
幕末の土佐と聞いて、坂本龍馬を思い浮かべる人は多いでしょう。龍馬は1861年に武市瑞山が率いた土佐勤王党へ加わり、翌1862年には土佐藩を脱藩しました。藩の外へ出た後は勝海舟らと関わり、薩長の提携にも携わっていきます。
一方、土佐藩内部では15代藩主山内豊信、号を容堂といった人物のもとで政治が動きました。容堂に登用された吉田東洋は藩政改革を進め、東洋の死後には後藤象二郎らが藩政の中心へ進みます。
1867年、龍馬は後藤象二郎を通じて、土佐藩の政治に関わるようになります。龍馬と後藤がまとめたとされる大政奉還を含む構想は、後に「船中八策」と呼ばれました。後藤はこの構想を前藩主山内容堂へ進言し、容堂は15代将軍徳川慶喜へ大政奉還を建白します。同年10月、慶喜は政権を朝廷へ返しました。
土佐藩の幕末史には、坂本龍馬、武市瑞山、吉田東洋、後藤象二郎、山内容堂、板垣退助ら、立場も政治構想も異なる人物が登場します。

