山口県萩市で2025年4月27日に開催される「毛利輝元公没後400年」記念イベントは、関ヶ原の戦いで敗れながらも長州萩藩の基礎を築いた毛利輝元の功績を偲ぶ特別な催しです。萩城跡指月公園をメイン会場に、江戸時代から続く「萩大名行列」の披露や伝統芸能の上演、毛利家ゆかりの花江茶亭での呈茶席、限定「御城印」の販売など多彩なプログラムが予定されています。萩の城下町全体で繰り広げられるこのイベントは、過去を振り返るだけでなく、輝元公が400年前に築いた基盤が明治維新につながり、現代日本の形成にまで影響を与えた歴史の連続性を実感できる貴重な機会となるでしょう。
- 歴史の転換点に立つ名将の遺産:毛利輝元公没後400年記念イベント
- イベント開催の背景
- 開催概要〜日時・場所・主なプログラム〜
- 萩市全体で盛り上がる記念イベント
- 見どころ満載!記念イベントで体験する萩の伝統文化
- 萩大名行列〜伝統の「平安古備組」が城下町を練り歩く〜
- 伝統芸能の競演〜御船謡から大板山たたら太鼓まで〜
- 萩焼の魅力〜400年続く伝統工芸を体験〜
- 親子で楽しむ体験プログラム〜はぎびんごでおたから探し!〜
- 毛利輝元とは?関ヶ原の敗者から萩藩の礎を築いた武将
- 毛利元就の孫として〜毛利家の歴史と輝元の生涯〜
- 関ヶ原の戦いと毛利家の運命
- 萩に移封された輝元が残した功績
- 萩城と城下町〜400年の時を超えて残る江戸時代の風景〜
- 萩城築城と計画的に作られた城下町
- 世界遺産にも登録された萩の歴史的価値
- 歴史的町並みに残る武家屋敷と商家
歴史の転換点に立つ名将の遺産:毛利輝元公没後400年記念イベント
イベント開催の背景
毛利輝元は、1604年に徳川幕府より萩、指月山に築城することを承認され、萩城を居城と定めました。嫡男である秀就(ひでなり)に家督を譲った後も、秀就が幼少であったことから藩政を指揮し、萩藩の基礎固めと発展に尽力した人物です。輝元が1625年(寛永2年)4月27日に亡くなってから、今年で400年の節目を迎えることを契機に、この記念イベントが企画されました。
このイベントの目的は、毛利輝元の生前の偉業を広く知ってもらうとともに、その功績を長く後世に伝えることにあります。輝元が基礎を築いた萩は、その後260年余りにわたって毛利36万石(36万9千石)の城下町として発展し、幕末期には近代日本の夜明けを告げる人々を輩出する明治維新胎動の地となりました。つまり、現代の日本の姿も、400年前の輝元の決断や行動があってこそのものと言えるのです。
開催概要〜日時・場所・主なプログラム〜
「毛利輝元公没後400年」記念イベントは、2025年4月27日(日)10:00から16:00まで、萩城跡指月公園を中心に萩城城下町一帯で開催されます。少雨決行とのことですが、中止の判断は各参加団体によって決定される予定です。
メインイベントとなるのは、萩城跡指月公園内の特設ステージで行われる伝統行事の披露です。オープニングセレモニーに始まり、御船謡の披露、萩大名行列「平安古備組」の演舞、日本武道演武、大板山たたら太鼓の披露など、萩の伝統文化を堪能できるプログラムが目白押しです。また、お子さま連れにも楽しんでいただけるよう、「はぎびんごでおたから探し!」や子供縁日なども企画されています。
特に注目すべきは萩大名行列です。江戸時代から金谷神社に奉納されてきた伝統行事で、「イサヨ~シ」の掛け声とともに毛槍を投げ渡しながら行進するのが特徴です。この行列は午前9時に城下町をスタートし、菊屋家住宅前や萩博物館前などで「草履舞」と「長州一本槍」を披露しながら、萩城跡指月公園へと向かいます。
萩市全体で盛り上がる記念イベント
記念イベントは萩城跡指月公園だけでなく、萩市全体で様々な関連企画が展開されます。毛利輝元ゆかりの「花江茶亭」では呈茶席が設けられ、幕末の多事多難のおり、萩藩13代藩主毛利敬親がこの茶室で支藩主や家臣たちと茶事に託して時勢を論じ、国事を画策したとされる歴史的空間を体験することができます。
萩焼の窯元である「城山窯」と「波多野指月窯」では、登り窯見学や萩焼体験(絵付け、手びねり、電動ろくろ)が行われます。特に波多野指月窯は、山口県指定無形文化財の萩焼保持者である波多野善蔵氏の窯元として知られています。
さらに、菊屋家住宅では「伝狩野芳崖筆 毛利二十一将御座備之図」が初公開されるほか、金毘羅社円政寺では「毛利公家紋入三宝・御神輿」の特別展示や期間限定の「毛利公家紋入御朱印」の販売も行われます。また、イベント当日限定で「御城印」(500円、200枚限定、場所/萩城跡指月公園内 イベント本部テント)も発売されるなど、萩の町全体で輝元公を偲ぶイベントが開催されます。
見どころ満載!記念イベントで体験する萩の伝統文化
萩大名行列〜伝統の「平安古備組」が城下町を練り歩く〜
「萩大名行列」は、江戸時代から金谷神社に奉納されてきた萩市古来の伝統行事です。今回のイベントでは、「平安古備組(ひやこそなえぐみ)」の行列が、朝9時に城下町をスタートし、『イサヨ~シ』の掛け声とともに次々に毛槍を投げ渡しながら道具類の持ち手を交代し、萩城跡へ向けて練り歩きます。
この行列は、江戸時代に萩藩主が参勤交代で江戸と萩を往復する際に行われた大名行列を模したもので、当時の威風堂々とした様子を今に伝えています。行列は菊屋家住宅前、萩博物館前、毛利輝元公銅像前などの各所で立ち止まり、「草履舞」と「長州一本槍」を披露します。「草履舞」は草履を履いて舞う独特の踊りで、「長州一本槍」は長州藩特有の槍術の型を披露するもので、江戸時代の武家文化を垣間見ることができる貴重な機会です。
伝統芸能の競演〜御船謡から大板山たたら太鼓まで〜
記念イベントでは、萩に伝わる様々な伝統芸能が披露されます。中でも「御船謡(おふなうた)」は、毛利氏の御座船唄として、藩主が乗船するときや新造船が進水するとき、また年頭に御船倉で代官が乗り初めの行事を催すときに演唱されたものです。山口県指定無形民俗文化財にも指定されており、かつての萩藩の海運文化を伝える貴重な伝統芸能です。
「大板山たたら太鼓」も見どころの一つです。これは「大板山たたら製鉄遺跡」(世界遺産)をテーマとして、製鉄炉の炎の力強さをイメージした創作和太鼓です。世界遺産に登録された産業遺産と結びついた伝統芸能として、萩の歴史と文化の重層性を感じさせてくれます。
さらに、「萩民謡 男なら」の披露も予定されています。これは山口県を代表する民謡で、幕末期に萩のまちを守るために女性たちが菊ヶ浜に土塁(女台場)を築いた際に、士気を鼓舞するために唄われたものです。萩の女性たちの心意気を今に伝える貴重な民謡で、萩の歴史の一コマを垣間見ることができます。
これらの伝統芸能は、単なる「古い芸能」ではなく、萩の歴史や文化、人々の生活や価値観と深く結びついた生きた文化遺産です。毛利輝元公没後400年の記念イベントで、これらの伝統芸能に触れることは、萩の歴史の連続性と文化の豊かさを実感する機会となるでしょう。
萩焼の魅力〜400年続く伝統工芸を体験〜
萩焼(はぎやき)は、山口県萩市を中心に製作される日本の代表的な陶磁器の一つです。その歴史は約400年前、毛利輝元が萩に移った時期に始まります。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に連れてこられた朝鮮の陶工たちによって技術が伝えられたと言われています。つまり、今回の「毛利輝元公没後400年」の記念イベントは、萩焼の歴史にとっても約400年という節目なのです。
萩焼の最大の特徴は、使い込むほどに変化する「萩の七化け」と呼ばれる独特の味わいです。釉薬(うわぐすり)の下の土が使用とともに表面に現れ、色や風合いが変化していきます。また、貫入(かんにゅう)と呼ばれるひび割れも特徴の一つで、これが時間の経過とともに茶渋などを吸収し、独特の風合いを生み出します。
今回のイベントでは、「城山窯」と「波多野指月窯」という萩を代表する窯元で、登り窯見学や萩焼体験などが行われます。特に波多野指月窯は、山口県指定無形文化財の萩焼保持者である波多野善蔵氏の窯元です。萩焼の伝統技術を間近で見学したり、実際に萩焼の絵付けや手びねり、電動ろくろ体験をしたりすることで、400年続く伝統工芸の魅力に直接触れることができます。
親子で楽しむ体験プログラム〜はぎびんごでおたから探し!〜
「毛利輝元公没後400年」記念イベントでは、子どもたちも楽しめる体験プログラムが充実しています。中でも「はぎびんごでおたから探し!」は、萩城跡でおたから探しゲームとクイズに挑戦するもので、古地図をヒントに萩城の昔の様子を知る手がかりや「へぇ~」というポイントを回ってクイズに答えるというものです。このプログラムは13:00~と14:30~の2回実施されるので、家族連れは参加してみてはいかがでしょうか。
また、至誠館大学の学生たちが企画・実施する「子供縁日」も10:00~15:30まで開催されます。ここでは子どもたちが楽しめる様々なゲームや体験コーナーが用意されるとのことで、家族全員で楽しめる内容となっています。大学生たちが地域の歴史イベントに参加し、次世代に歴史を伝える役割を果たしているという点も注目すべきでしょう。
さらに、11:00~と15:00~には「餅まき」も予定されており、子どもから大人まで楽しめるイベントとなっています。地元の春日保育園のパレードも予定されており、地域ぐるみで歴史イベントを盛り上げる姿勢が感じられます。
これらの親子向けプログラムの意義は、歴史や伝統文化を次世代に伝えるという点にあります。単に「昔はこうだった」という知識を伝えるだけでなく、ゲームや体験を通じて楽しみながら歴史に触れることで、子どもたちの心に萩の歴史や文化が自然と根付いていくことでしょう。毛利輝元公没後400年という節目の年に、子どもたちが萩の歴史に触れることは、次の400年に向けての第一歩とも言えるのではないでしょうか。
毛利輝元とは?関ヶ原の敗者から萩藩の礎を築いた武将
毛利元就の孫として〜毛利家の歴史と輝元の生涯〜
毛利輝元(もうりてるもと)は、1553年(天文22年)に毛利隆元の長男として生まれました。祖父は中国地方一帯を統一した戦国武将として名高い毛利元就です。元就は「毛利元就の三矢の教え」で知られる戦略家で、小さな国人領主から出発しながらも、巧みな外交と戦略によって中国地方に勢力を広げました。その孫である輝元は、祖父と父が築き上げた毛利家の基盤を引き継ぐ重要な立場にありました。
豊臣秀吉の時代、輝元は豊臣政権下で大きな権力を握ります。安芸・周防・長門・石見・出雲・備後・隠岐七ヵ国および伯耆(三郡)と備中(半国)で112万石(120万石とする説もあり)の知行目録を与えられ、中国地方八ヵ国にその勢力を振るい、豊臣政権の最高幹部である五大老にも任じられ、政務を担当しました。
しかし、豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が表面化するなかで、輝元の運命は大きく変わることになります。輝元は関ヶ原の戦いにおいて西軍(石田三成側)の総大将格として描かれますが、実際には戦場には行かず、従弟の毛利秀元が率いる軍勢を送ったとされています。これについては様々な解釈がありますが、最後まで中立的な立場を保とうとした可能性も指摘されています。
関ヶ原の戦いと毛利家の運命
1600年(慶長5年)10月21日、現在の岐阜県関ヶ原町で行われた関ヶ原の戦いは、日本の歴史を大きく変えた決定的な合戦でした。東軍(徳川方)と西軍(石田方)に分かれて戦われたこの合戦で、毛利輝元は西軍の総大将格とされていましたが、戦場には姿を現さず、結果的に西軍は敗北しました。
関ヶ原の敗戦後、毛利家は大幅な領地削減という処分を受けることになります。それまで中国地方八カ国、112万石を領有していた毛利家は、周防・長門の二カ国、36万石に減封(領地を減らされること)されました。これは確かに大幅な減封でしたが、西軍に属した大名の中では比較的軽い処分だったとも言われています。完全に改易(取り潰し)された大名も多かった中で、なお大名としての地位を保ち、36万石という決して小さくない石高を与えられたのは、徳川家康が毛利家の力を完全には無視できなかったことの表れとも考えられます。
この領地削減によって、毛利家は安芸国(現在の広島県東部)の吉田から、周防・長門(現在の山口県)に本拠地を移すことになりました。全く新しい土地で新たな城と城下町を築き、藩としての基盤を一から作り直すという大事業でした。
萩に移封された輝元が残した功績
関ヶ原の敗北という逆境の中、毛利輝元は周防・長門への移封を受け入れ、新たな拠点として萩の地を選びました。1604年(慶長9年)に萩の指月山麓に萩城を築城し、萩開府の祖となったのです。すでに家督は嫡男の秀就に譲っていたものの、秀就はまだ幼く江戸藩邸に滞在していたため、実質的な藩政は輝元が担っていました。
輝元は新たな土地で藩の基礎固めに尽力しました。城下町の整備や藩政の確立、産業の振興など、長州藩(萩藩)の基盤を作り上げたのです。また、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際に連れてこられた朝鮮の陶工たちを保護して萩焼の基礎を築くなど、文化面での貢献も大きいものでした。
こうした輝元の尽力によって、萩は毛利36万石の城下町として発展し、以降260年余りにわたって長州藩の中心地としての役割を果たすことになります。さらに時代が下って幕末期には、高杉晋作や木戸孝允(桂小五郎)、伊藤博文など、明治維新を成し遂げる多くの志士たちを輩出することになりました。つまり、輝元が関ヶ原の敗北という逆境から立ち上がり、萩に新たな基盤を築いたことが、250年以上後の明治維新、そして近代日本の形成にまでつながっていったのです。
萩城と城下町〜400年の時を超えて残る江戸時代の風景〜
萩城築城と計画的に作られた城下町
萩城(指月城)は、毛利輝元が 1604年(慶長9年)に着工し、1608年に完成 させた城郭です。背後には指月山(標高143m)の詰丸、前面には日本海へ注ぐ橋本川・松本川が横たわり、三方を川と海に囲まれた天然の要害に築かれました。
山頂の 詰丸(山城部) と、山麓の 本丸・二の丸・三の丸(平城部) を一体化させた「平山城」の典型です。本丸は山の南側の扇状地に設けられ、そこから堀と石垣が同心円状に広がります。堀内(武家地)の白壁や土塀、武家屋敷の長屋門は当時の景観を現在まで色濃く残しています。
萩築城と同時に整備された城下町は、碁盤目状の街路に 武家地(堀内地区)・商家町(橋本町・浜崎)・寺社地などがきれいに区分され、身分や職業ごとに居住エリアが割り当てられました。この合理的な町割が江戸期を通じてほとんど変わらなかったため、今も歩くだけで当時の空気感を味わえます。
とりわけ堀内地区に立ち並ぶ武家屋敷では、白漆喰の塀と黒いなまこ壁、武家門などが往時の面影をそのまま伝えています。明治以降も大規模開発を免れたことで、町並み全体が「屋外博物館」のように残され、国の史跡および重要文化的景観に指定されています。
世界遺産にも登録された萩の歴史的価値
萩の歴史的価値は国内外で高く評価されています。萩は「日本で最もよく江戸時代の面影を残す都市」とも言われ、1967年に「史跡萩城城下町」として国の史跡に指定され、1976年に堀内地区と平安古地区が全国で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。さらに2015年には「明治日本の産業革命遺産」の構成資産として世界文化遺産にも登録されています。
世界遺産に登録された萩の構成資産には、「萩反射炉」「恵美須ヶ鼻造船所跡」「大板山たたら製鉄遺跡」「萩城下町」「松下村塾」などがあります。これらは幕末から明治にかけて日本が近代化を進める過程で重要な役割を果たした施設や遺跡であり、毛利輝元が基礎を築いた萩藩が、約250年後の日本の近代化に大きく貢献したことを物語っています。
萩の歴史的価値の特徴は、古い建物や遺跡が残っているだけでなく、江戸時代の都市構造がそのまま保存され、当時の人々の生活や社会の様子を今に伝えている点です。また、萩焼などの伝統工芸が今も受け継がれ、城下町としての雰囲気とともに、生きた文化として存続している点も重要です。毛利輝元が400年前に基礎を築いた萩の町は、「古い町」ではなく、時代を超えて息づく生きた歴史遺産なのです。
歴史的町並みに残る武家屋敷と商家
萩の城下町には、今も江戸時代の面影を色濃く残す歴史的建造物が多数残されています。特に「武家屋敷」は萩を代表する観光スポットとなっており、白壁、なまこ壁、土塀などが特徴的な景観を形成しています。武家屋敷の一部は一般公開されており、江戸時代の武士の生活を垣間見ることができます。
また、商人町であった「橋本地区」には、旧山村家住宅など、当時の商家の姿を伝える建物が残っています。さらに、菊屋家住宅は国の重要文化財に指定されており、江戸時代の豪商の暮らしぶりを今に伝えています。今回のイベントでは、菊屋家住宅で「伝狩野芳崖筆 毛利二十一将御座備之図」が初公開されるなど、特別企画も予定されています。
萩の街並みの魅力は、町全体が江戸時代の都市計画に基づいた構造を維持していることです。小路や水路、町割りなど、都市の骨格そのものが400年前の姿を伝えており、まさに「タイムスリップしたような町」と形容されるゆえんです。毛利輝元が関ヶ原の戦いに敗れ、新たな拠点として築いた萩の町が、400年の時を経て今も私たちに江戸時代の姿を見せてくれるのは、歴史の不思議さと面白さを感じさせてくれます。
毛利輝元公没後400年記念イベントのまとめ
- 毛利輝元公没後400年記念イベントは2025年4月27日開催
- 萩城跡指月公園をメイン会場に城下町一帯で実施
- 江戸時代から続く萩大名行列「平安古備組」が披露
- 御船謡や大板山たたら太鼓など伝統芸能が競演
- 毛利家ゆかりの花江茶亭で呈茶席を開催
- 城山窯と波多野指月窯で萩焼体験が可能
- はぎびんごでおたから探しなど親子向けプログラムも充実
- 輝元公は関ヶ原の敗北後、萩藩36万石の基礎を築く
- 輝元が築いた萩城と城下町は世界遺産にも登録
- 萩の歴史的町並みは江戸時代の風情を今に伝える
- 明治維新の志士を輩出した萩の原点は輝元の功績