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1790年朱子学を正当な学問とし、それ以外を禁止した政策は?

松平定信(まつだいらさだのぶ)は、衰退していた朱子学を振興するため、朱子学以外の学問を禁止しました。この政策を何と呼んでいいますか?

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寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)です。

江戸時代の正学は朱子学です。徳川家康の侍講(じこう)であった林羅山(はやしらざん)は家康、秀忠、家光、家綱4代に仕え、将軍に朱子学の講義を行いました。

5代将軍綱吉の代には林家の家塾を湯島に移し湯島聖堂を創建して羅山の孫 信篤(のぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任命しました。以後、林家が代々大学頭を務めるようになります。

しかし、時代が進むにつれ朱子学は衰退し、他の学問が台頭してきます。松平定信は寛政の改革において、朱子学を正当な学問とし朱子学を振興する政策をとります。

林家の門人に対し朱子学以外の学問を禁じ、朱子学の講義、研究につとめるよう命じます。幕府は湯島聖堂の学問所を直轄にして昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)とあらためます。

幕府は優秀な朱子学者を招き昌平坂学問所の教官としました。柴野栗山(しばのりつざん)、尾藤二洲(びとうじしゅう)、岡田寒泉(おかだかんせん)もしくは古賀精里(こがせいり)の三名は寛政の三博士(かんせいのさんはかせ)と呼ばれました。

岡田寒泉は松平定信が老中を退いたあと代官に転身したため、代わりに古賀精里が入り三博士となります。

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