2025年12月11日、葛飾区郷土と天文の博物館で開催中の特別展「秀吉来襲」を観覧してきました。来年放送予定の大河ドラマ「豊臣兄弟」にもつながる、タイムリーな企画です。展示では、16世紀後半の関東情勢から秀吉による小田原征伐、そして北条氏滅亡後の関東までを、葛西城・山中城・八王子城などから出土した遺物とともにわかりやすくたどることができます。さらに、関連講座「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」で取り上げられた葛西城跡出土の弾丸も展示されているため、講座を受講した方はより深く楽しめるはずです。
- 小田原北条氏の興隆:初代から四代、そして滅亡への軌跡
- 初代・北条早雲(伊勢宗瑞):エリート官僚から戦国大名へ
- 二代・氏綱:権威の確立と「北条」への改姓
- 三代・氏康:関東の覇者と先進的な民政
- 四代・氏政と五代・氏直:最大版図と秀吉との激突
- 小田原征伐と終焉:山中城、葛西城、八王子城の落城
- 山中城の戦い:わずか半日の陥落!7万対3千の現実
- 葛西城の戦い:東部の要衝陥落
- 八王子城の戦い:凄惨を極めた激戦
- 観覧を終えて
- 南蛮貿易と威信財
- 開催情報

小田原北条氏の興隆:初代から四代、そして滅亡への軌跡
小田原北条氏(後北条氏)は、室町時代末期から約100年にわたり関東に勢力を築いた戦国大名です。勢力拡大の背景には武力だけでなく、先進的な民政や組織的な領国運営がありました。展示では、第1章「16世紀後半の関東情勢」から第5章「北条氏以後の関東」まで、北条氏と秀吉の攻防の流れを解説パネルで追うことができます。細かな解説は会場に譲りつつ、この記事では展示の見どころと、理解が深まる補足情報をまとめました。
初代・北条早雲(伊勢宗瑞):エリート官僚から戦国大名へ
かつては「一介の素浪人」が実力で成り上がった象徴とされた早雲ですが、近年の研究では、室町幕府政所執事を務めた名門・備中伊勢氏の一族であり、将軍に直接仕える奉公衆のエリート官僚だったことが明らかになっています。
幕府の政治的混乱の中で、今川家の家督争いの調停を契機に駿河へ下向し、功績により興国寺城などを与えられ武将として台頭しました。その後、明応2年(1493年)に伊豆へ侵攻して堀越公方を討ち、伊豆一国を平定し戦国大名の先駆けとなります。
永正3年(1506年)、早雲は相模西部で日本の戦国大名としては早期に検地(領地調査)を実施し、旧来の権威崩壊期に領民掌握の新たな統治手法を確立しました。これらの行動は、幕府秩序の再建と自らの領国形成の両面を持ち合わせた戦国時代の幕開けを象徴すると言えます。
二代・氏綱:権威の確立と「北条」への改姓
早雲の子・氏綱は、家督相続後に本拠を伊豆韮山から相模小田原へ移し、領国内の寺社を再建する際に自らを「相州太守」と称するなど、関東統治者としての威信を高めました。大永3年(1523年)、氏綱は名字を伊勢から「北条」へ改めます。
これは自称ではなく朝廷の認可も得ており、鎌倉幕府執権・北条氏の名跡を継ぐことで「自分こそ関東の正統な支配者」と主張する狙いがありました。改姓の時期は1523年6~9月頃と推定され、武蔵進出以前に行われたことから、「相模支配の正当性」を示す目的だったと考えられています。
氏綱はまた家督継承に際し、「虎の印判状」と呼ばれる独自の公印を用いた文書制度を確立しました。この虎印判は今川氏が用いていた私的な印章とは異なる「家印(公印)」であり、氏綱以降歴代当主に受け継がれる北条家の公式印となりました。
氏綱は武蔵国への侵攻も本格化させ、1524年には太田資高の寝返りを機に江戸城を攻略し関東で勢力を拡大。領国経営では「義」を重んじる訓戒(五箇条の遺訓)を残し、家中統率の基盤を築いています。
三代・氏康:関東の覇者と先進的な民政
三代目の氏康は、北条氏の最盛期を築いた不世出の名将です。1546年の「河越夜戦」において、圧倒的な数(軍記物では8万と伝わる)を誇る上杉・足利の連合軍を夜襲で破り、関東における主導権を完全に握りました。数字には後世の誇張も含まれると考えられていますが、この勝利が北条氏の覇権を決定づけた事実に変わりはありません。
内政面では、税率を「収穫の4割を公、6割を民」とする「四公六民」の制を確立したとされ、さらに「目安箱」を設置して民の声を吸い上げるなど、戦国時代において最も安定した領国経営を実現しました。武田信玄や上杉謙信といった強力な隣国とも渡り合い、強固な支城網を構築して関東一円を堅守しました。
四代・氏政と五代・氏直:最大版図と秀吉との激突
氏康没後、四男の氏政が家督を継ぎ、北条氏の版図は関東全域に広がります。氏政は天正8年(1580年)に嫡男の氏直に家督を譲りましたが、以後も後見人として実権を掌握し続けました。氏政・氏直の時代、北条氏の勢力圏は相模・伊豆・武蔵・下総・上総北部・上野(※上州)・下野(※一部)・駿河(※一部)・甲斐(※一部)・常陸(※一部)に及び、石高は約240万石に達したと推定されます。
しかし、中央では織田信長の後継者として豊臣秀吉が天下統一を推し進め、天正15年(1587年)には「惣無事令」を発して大名同士の私戦を禁じました。独自路線を貫いてきた北条氏は秀吉の上洛要請を無視し続け、武力衝突の危機が高まります。決定的事件となったのが天正17年(1589年)の「名胡桃城事件」です。
真田氏との領有争い中の沼田領について、秀吉の裁定で名胡桃城を含む一部を真田方領有と決まりましたが、北条方はこれに不満を募らせます。そしてその裁定からわずか数ヶ月後、北条家臣の猪俣邦憲(沼田城代)が謀略によって名胡桃城を急襲・占拠し、城主の鈴木重則を自害させてしまいました。
この一方的な侵攻は秀吉の惣無事令に対する重大な違反とみなされ、北条氏の独断か家臣の独走かに関わらず、秀吉の怒りを買います。秀吉は北条氏からの謝罪を受け付けず、「小田原征伐」によって北条氏を滅ぼす決意を固めました。天正18年(1590年)3月、秀吉は自ら20万以上ともいわれる空前絶後の大軍を率いて関東へ進軍し、天下統一の仕上げとして北条討伐を開始したのです。
小田原征伐と終焉:山中城、葛西城、八王子城の落城
葛飾区郷土と天文の博物館主催の特別展ということもあり、小田原征伐で落城した葛西城が取り上げられています。また、山中城や八王子城から出土した遺物も展示されています。
山中城の戦い:わずか半日の陥落!7万対3千の現実
小田原城西方を守る要衝・山中城(静岡県三島市)では、北条氏の有力家臣・松田康長を守将に約3千(約4千とする説もあり)の兵が籠もりました。これに対し豊臣方は秀吉の甥・豊臣秀次を総大将に徳川勢を加えた約7万の大軍で攻撃を開始します。
戦闘は夜明けから激烈を極め、北条軍は巧妙な「障子堀」の防御陣地を駆使して奮戦しました。一時は豊臣方先鋒の一柳直末(ひとつやなぎ なおすえ)を討ち取る戦果も挙げますが、兵力差は如何ともし難く、押し寄せる豊臣軍の波状攻撃により次第に守備線を突破されました。
最新の縄張りを誇った山中城も、戦闘開始からわずか半日で陥落してしまいます。城主・松田康長、副将・間宮康俊ら守将は玉砕し、豊臣軍側も一柳直末を含む多数の戦死者を出しました。難攻不落と信じられた城砦が半日で落城した事実は、秀吉が動員した「圧倒的な数の力」の前にいかに最新防御システムも脆かったかを物語っています。
今回の展示では、兜の前立てや鎧の小札(こざね)、大筒の玉など、多数の武器や武具が展示されています。特に目を引くのが火縄銃の弾丸です。山中城跡からは約200点の弾丸が出土していて、戦いの激しさを物語っています。
葛西城の戦い:東部の要衝陥落
葛西城(東京都葛飾区青戸)は下総国と武蔵国の境に位置する北条方の東部拠点でした。小田原征伐に際しては、徳川家康が率いる東国勢の担当エリアとなり、家康家臣の戸田忠次が攻略に向かいます。多くの周辺城が次々と降伏する中、葛西城は4月22日になっても開城せず抵抗を続けました。
戸田忠次の家伝によれば、降伏勧告を拒んだため攻撃を受けて落城したと記されます。4月29日付で秀吉の奉行・浅野長吉から葛西地域の村々(金町・柴又など)に「一切の略奪を禁ずる」触れが出されており、葛西城陥落と北条領支配の転換が示されています。
葛西城跡の発掘では、中国産の青花陶器や漆器、鉄鏃(矢じり)、刀装具類のほか火縄銃の鉛玉が検出されています。展示では、陶磁器や漆器の他、鉄鏃、刀装具などの武器、武具が紹介され、その中に火縄銃の弾丸もあります。この弾丸については、関連講座「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」の中でも解説がありました。
詳細は「戦国時代 火縄銃の弾丸を科学する:火縄銃の威力を左右した東国と西国の鉛・火薬の格差」にまとめてありますのでご参照ください。

八王子城の戦い:凄惨を極めた激戦
支城攻略の中で、最も悲劇的かつ激しい戦闘となったのが八王子城(東京都八王子市)です。城主の北条氏照は小田原の本城に詰めていたため、城内には家臣やその家族、農民など約3千人が残されていました。
1590年6月23日、前田利家・上杉景勝の連合軍は、霧に紛れて八王子城への総攻撃を開始しました。搦手(裏門)からの奇襲に成功した秀吉軍は、わずか一日で城を制圧します。この戦いは凄惨を極め、落城の際には多くの婦女子が城内の滝に身を投げたと伝えられています。
この八王子城の落城は北条氏に絶望を与え、最終的な降伏を決断させる決定打となりました。
展示では、八王子城から出土した陶磁器や武器類が紹介されています。北条家の中でも有力者であった氏照の居城というだけあって、瑠璃釉碗(るりゆうわん)や五彩皿(ごさいざら)などの船載品(はくさいひん)が含まれています。濃い青色の瑠璃釉碗はとても美しいです。高級品のベネチア産レースガラス瓶も展示されていて、キャプションパネルでも大名クラスの生活ぶりが窺えると説明しています。
武器・武具の中で注目されるのは、火縄銃の弾丸や鉄製の大玉で、特に鋳型が見つかっていることから、城内で玉をつくっていたことが推測されます。
観覧を終えて
南蛮貿易と威信財
戦国時代、火縄銃の普及により合戦の様相は一変しましたが、その運用には致命的な弱点がありました。
火薬の爆発に不可欠な原料である硝石は、当時の日本国内では採掘することができず、その供給のほぼ100%を海外からの輸入に依存せざるを得なかったのです。また、弾丸の材料となる鉛についても、国内産だけでは膨大な戦時需要を賄うことができず、中国や東南アジアから大量に運び込まれていました。
戦国大名たちは軍需物資を確保するため、領内の銀・銅などを資金にポルトガルや中国・東南アジアの商人との貿易に努めました。特に織田・豊臣政権は堺・長崎といった主要貿易港を掌握し、豊富な銃砲や火薬の入手に成功しています。
北条氏に関しては、直接自前の朱印船で南蛮・明に乗り出した記録は確認されておらず、もっぱら博多商人や堺商人などを介して必要物資を購入していたと考えられます(実際、織田信長は敵対する武田・北条氏への弾薬供給を経済封鎖して妨害した形跡もあります)。
他方、これら海外貿易により日本にもたらされた品には、高品質のガラス器や陶磁器、絹織物など世界各地の珍品が含まれていました。大名にとってそれら「南蛮渡来の名物」は、自らの経済力と国際コネクションを誇示する威信財として機能します。
北条氏照の八王子城から出土したベネチア玻璃や中国陶磁もまさにその例で、貿易で手に入れた貴重なガラス瓶や陶磁器などは、恩賞や贈答に用いられた可能性もあり、忠誠心を繋ぎ止め、組織の結束を図る政治的手段として機能していたと考えられます。
葛飾区郷土と天文の博物館の特別展「秀吉来襲」と関連講座「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」を拝聴したことで改めて浮き彫りになったのは、西高東低の戦争遂行能力です。織田信長が商都・堺の豪商たちを掌握し、豊臣秀吉が博多・長崎を直轄支配したことで、西国の中央政権は潤沢な軍資を得ました。
一方、東国の武田氏や北条氏は慢性的な鉛不足に悩まされ、銭貨・鐘・銅器をかき集めて銃弾に充てる策に追われました。それでもなお物量の差は埋まらず、北条氏はついに秀吉に降伏して関東覇権の座を明け渡すに至ったのです。早雲や氏康がもし生きていたらどのような手を打っただろうか?そんなことを考えるのもまた歴史の楽しみのひとつです。
展示では、秀吉の書状(北条氏直宛、真田昌幸宛)や家康の書状(真田信幸宛)も紹介されています。城跡から出土した陶磁器や武具、火縄銃の弾丸などの遺物も展示されており、実物を見ることで当時の状況がより具体的に伝わってきます。特別展「秀吉来襲」は1月18日まで開催されていますので、気になる方はぜひ博物館を訪れてみてください。
開催情報
| 企画名 | 特別展「秀吉来襲」 |
|---|---|
| 主催 | 葛飾区郷土と天文の博物館 |
| 会期 | 令和7年11月22日(土曜日)から令和8年1月18日(日曜日) |
| 会場 | 葛飾区郷土と天文の博物館 2階特別企画展示室 |
| 開館時間 | 月曜日(祝日は開館)、第2・第4火曜日(祝日は開館し翌日休館)。1月12日(成人の日)は開館。 |
| 入館料 | 大人100円、小・中学生50円、幼児無料(土曜日は中学生以下無料) |
| 観覧料 | 無料 |
特別展「秀吉来襲」豊臣秀吉と小田原北条氏のまとめ
- 特別展「秀吉来襲」を現地観覧
- 関東情勢から小田原征伐までを展示
- 葛西・山中・八王子城の出土遺物
- 初代・北条早雲の出自と台頭
- 氏綱の改姓と関東支配の正統化
- 氏康の河越夜戦と安定した民政
- 氏政・氏直期に最大版図を形成
- 名胡桃城事件が征伐の引き金
- 山中城は半日で陥落
- 葛西城は徳川勢により攻略
- 八王子城で凄惨な激戦
- 南蛮貿易と威信財が戦力を左右

