ジャンクワードドットコム・歴史と暮らしのポータルサイト

2025.12.18

戦国時代 火縄銃の弾丸を科学する:火縄銃の威力を左右した東国と西国の鉛・火薬の格差

2025年11月29日(土)、葛飾区郷土と天文の博物館で開催された考古学講座「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」を受講しました。この講座は、11月22日(土)から開催されている特別展「秀吉来襲」に関連したもので、葛西城跡・八王子城跡・鉢形城跡から出土した火縄銃の弾丸の調査結果とその考察がテーマになっています。この記事では、当日の講座内容と、私が補足で調べたことをあわせてまとめました。

-・- 目次 -・-
  • 考古学講座「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」
    • 火縄銃の弾丸の材質(材料)
    • 鉄砲玉の分析方法:蛍光X線分析(XRF)
    • 鉄砲玉の分析方法:鉛同位体比分析
  • 火縄銃の弾丸調査事例
    • (1)葛西城
    • (2)八王子城
    • (3)鉢形城
    • 一乗谷朝倉氏遺跡で見つかった鉛インゴット
  • 鉛や火薬の入手が困難だった東国の戦国大名たち
    • 小田原北条氏
    • 甲斐武田氏
  • 受講を終えて
    • 専門的なテーマと新たな知見
    • 開催情報

葛飾区郷土と天文の博物館で開催された考古学講座「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」撮影:junk-word.com(爆点日本史編集部)
葛飾区郷土と天文の博物館で開催された考古学講座「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」撮影:junk-word.com(爆点日本史編集部)

考古学講座「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」

火縄銃の弾丸の材質(材料)

戦国時代に火縄銃の弾丸として最も適しており、広く使われたのは鉛です。鉛を使用する利点は主に3つあります。

  1. 銃身を傷めない:鉛は柔らかい金属です。当時の火縄銃は鉄で作られていたため、鉄よりも柔らかい鉛の弾を使うことで、発射時の摩擦による銃身内部の摩耗や損傷を防ぐことができました。
  2. 鋳造が容易:鉛は融点(溶ける温度)が約327℃と金属の中では非常に低く、焚き火程度の熱でも溶かせます。そのため、戦場の陣営でも「玉型(たまがた)」という鋳型を使い、簡単に弾丸を量産・補充できました。
  3. 威力が高い:鉛は比重が大きく(重く)、空気抵抗に負けずに遠くまで飛び、打撃力も強力でした。また、人体に命中した際に弾丸が変形・破砕しやすく、殺傷能力が高いという特徴もありました。

鉄砲玉の分析方法:蛍光X線分析(XRF)

戦国時代の火縄銃の弾丸研究では、「蛍光X線分析(XRF)」と「鉛同位体比分析」が使用されるそうです。講座でも蛍光X線分析装置や表面電離型質量分析計についての解説があり、当日配布された資料にも写真付で紹介されています。簡単に言うと、「XRFは何でできているか(成分)」を調べ、「鉛同位体比法はどこで生まれたか(産地)」を特定する技術です。この2つの分析方法の違いと、それによって何が分かったのかを解説します。

蛍光X線分析(XRF):物質にX線を照射すると、その物質に含まれる元素特有の「蛍光X線」という光のようなエネルギーが放出されます。このエネルギーの種類と強さを読み取ることで、「鉛が99%で、銅が1%混ざっている」といった成分構成が分かります。例えば、鉛玉なのか、鉄玉なのか、あるいは銅銭を溶かした銅玉なのかを判別できます。

不純物(ヒ素、アンチモン、銀など)がどれくらい含まれているかを見ることで、当時の金属精錬技術の高さや、意図的に硬さを変えるために別の金属を混ぜたかどうかが分かります。

最大の特徴は、非破壊検査!文化財である弾丸を削ったり溶かしたりする必要がありません。ハンディタイプの装置を弾丸にかざすだけで、数秒〜数十秒で測定できます。「国宝の刀」や「戦国大名の直筆の手紙」などは、たとえ研究のためであっても、ドリルで穴を開けたり薬品で溶かしたりすることは許されません。ほんの少し削った傷跡でさえ、美術品としての価値を損なってしまう恐れがあります。

破壊分析だと「代表的な1個」しか調べられませんが、非破壊なら「出土した100個の弾丸すべて」を調べることができます。これにより、「たまたま1個がそうだった」のではなく、「全体の9割がそうである」という統計的な証拠が得られるようになりました。

XRFのもう一つの特徴は携帯性です。昔の分析機器は冷蔵庫のように巨大で、博物館から動かせませんでした。しかし現在は、ドライヤーやバーコードリーダーのような形をした「携帯型(ハンドヘルド)蛍光X線分析装置」が主流です。壁画や仏像など、物理的に運べないもの。地方の小さな資料館やお寺にあって、持ち出し許可が下りないもの。発掘現場で、土から出た直後の遺物。 これらを、研究者がその場で「ピッ」と測れるようになったのです。

鉄砲玉の分析方法:鉛同位体比分析

鉛同位体比分析:「この鉛は、どこの鉱山で採れたのか?」を調べる分析です。鉛には重さの違う4つの同位体(鉛204, 206, 207, 208)があります。この4つの比率は、鉛鉱石が地球の中で形成された年代(数億年前〜数十億年前)によって決まり、精錬したり溶かして弾丸に加工したりしても絶対に変化しません。 つまり、鉛の「指紋」や「DNA」のようなものです。

この比率をデータベースと照合することで、産地を特定します。分析の方法 XRFとは異なり、かつては弾丸の一部をわずかに削り取る(微量破壊)必要がありましたが、現在はレーザーを使った極めて傷跡の小さい方法(LA-ICP-MSなど)も進化しています。この分析方法により、その鉛が日本産なのか、中国産なのか、タイ産なのかを明確に区別できます。

XRFで成分を調べると、国産の鉛は不純物(銀など)の混ざり方が独特で、輸入鉛は非常に純度が高い(あるいは特定の不純物パターンがある)ことが分かります。 さらに同位体比で、産地を特定すると、「西国の大名は輸入鉛を使い、東国大名は国産やリサイクル鉛を使っていた」という当時の事情がわかるようになります。

火縄銃の弾丸調査事例

(1)葛西城

葛西城(かさいじょう)は、現在の葛飾区青戸(あおと)付近にあった平城(ひらじろ)です。15世紀中頃(室町時代)、関東管領の上杉氏によって築城されたと考えられています。その後、北条氏の手に渡り、東国と北条氏の本拠地(小田原)をつなぐ水運・物流の超重要拠点として機能しました。1590年の小田原征伐の際、豊臣軍の戸田忠次らに攻められ落城!徳川家康が関東に入った後は、家康の宿舎(青戸御殿)としても使われましたが、後に廃城となりました。

配布された資料によると、葛西城跡から出土した弾丸4点のうち2点は、鉛の濃度がいずれも99%以上という高純度の鉛弾で豊臣勢が発砲したものと推測されます。残る2点は鉛と銅の濃度比が「鉛5:銅5」と「鉛6:銅4」の鉛-銅合金弾であることが分かっています。東国大名の拠点からは、鉛を含む青銅製の弾丸が出土する例はあるものの、このような鉛-銅合金製の弾丸は他に例がなく、非常に珍しい化学組成だとされています。

また、鉛同位体比分析の結果、鉛製の2点は産地不明ながら「華南産か?」と示唆され、鉛-銅合金製の2点は中国華南産の鉛を用いた可能性が高いことも分かりました。材質と材料産地が一致していることから、同一産地の鉛材料をもとに加工された弾丸と考えられます。

東京都葛飾区青戸の葛西城跡(御殿山公園)に設置されている「発掘された葛西城」の説明板:撮影:junk-word.com(爆点日本史編集部)
東京都葛飾区青戸の葛西城跡(御殿山公園)に設置されている「発掘された葛西城」の説明板:撮影:junk-word.com(爆点日本史編集部)

(2)八王子城

八王子城(はちおうじじょう)は、1570年代〜80年代にかけて、北条氏照(ほうじょう うじてる/氏康の三男)によって築かれました。西から攻めてくる甲斐(武田氏)や上方(豊臣氏)の軍勢を食い止めるための、関東防衛の要(かなめ)でした。

1590年6月23日、前田利家・上杉景勝ひきいる1万5千の大軍に攻められました。城主の氏照は小田原に詰めており不在で、留守を預かる家臣や領民、女性たちが必死に抵抗しましたが、わずか1日で落城。悲劇的な殲滅戦となったことで知られています。

この激戦地からも、鉛だけでなく「銅を主成分とする弾丸(銅玉)」や、不純物の多い粗悪な弾丸が多数見つかっています。圧倒的な物量で攻め寄せる豊臣軍に対し、乏しい資源で抵抗した跡が生々しく残っています。

(3)鉢形城

鉢形城(はちがたじょう)は、1476年頃、長尾景春によって築かれたのが始まりとされますが、その後、北条氏邦(ほうじょう うじくに/氏康の四男)が大改修を行い、北関東支配の拠点としました。かつては武田信玄や上杉謙信の攻撃も防ぎきった名城です。

1590年の小田原征伐では、前田利家らの大軍(約3万5千とも)に包囲されました。1ヶ月以上にわたり籠城して持ちこたえましたが、城兵や領民の命を救うことを条件に開城・降伏しました。

ここでも鉄砲玉が見つかっています。調査により、北条氏の各支城で共通して見られる「鉛不足を補うための工夫(混ぜ物や銅銭の利用)」の痕跡が確認されています。

これら3つの城は、場所も作られた時期も違いますが、「1590年に豊臣秀吉の圧倒的な軍事力(と物流)の前に敗れ去った」という共通の運命をたどりました。

今回の講座でも、城跡から出土した材質と材料産地について詳しい解説がありました。 出土した弾丸の成分分析は、「東国武士たちが、輸入鉛を潤沢に持つ豊臣軍に対し、手に入る金属を何でも溶かして作った弾丸で必死に戦った」という事実を、現代の私たちに伝えています。

一乗谷朝倉氏遺跡で見つかった鉛インゴット

講座の資料には、越前の戦国大名朝倉氏の「一乗谷朝倉氏遺跡」で見つかった鉛インゴットについての解説も掲載されています。

遺跡から発見される鉛インゴットとは、「加工する前の鉛の延べ棒(かたまり)」のことです。一乗谷朝倉氏遺跡(福井県)では、棒状や楕円形、円錐形のインゴットが見つかっています。鉛は非常に重い金属です(鉄の約1.5倍)。巨大な塊だと運搬が困難なため、兵士や職人が持ち運びやすく、かつ現場で切り分けやすいサイズに鋳造されて流通していました。

戦場では、兵士たちがこのインゴットを携行したと考えられています。そして、弾が尽きると陣中で焚き火をして鍋(柄杓)でインゴットを溶かし、「玉型(たまがた)」に流し込んで弾丸を自給自足で作りました。

弾丸になってしまうと、発射されて形が崩れたり、どこで誰が使ったか曖昧になったりします。しかし、インゴットの状態で遺跡(城や屋敷)から見つかると、「この大名は、どこの国から輸入した鉛を在庫として持っていたか」が明確に分かります。

一乗谷朝倉氏遺跡で見つかった鉛インゴットを鉛同位体比分析したところ、形態によって産地が異なり、円錐形のものはタイ産、楕円形の大型インゴットは中国華南産の鉛である可能性が高いことが分かりました。これにより、北陸の朝倉氏が遠く東南アジアや中国とつながる輸入ルートを持っていた、あるいは堺や博多の商人と深く結びついていたことが、具体的なデータによって示されています。

さらに、講座の解説によれば、楕円形インゴットの鉛同位体比が葛西城出土の鉛製弾丸の鉛同位体比と近い値を示すことも分かり、葛西城の弾丸にも中国華南産の鉛が用いられていた可能性が高いと考えられると紹介されました。

鉛や火薬の入手が困難だった東国の戦国大名たち

東国(関東・甲信越・東北など)の大名は、西国の大名に比べて鉛の入手が圧倒的に困難でした。これは地理的な距離の問題だけでなく、織田信長による「経済封鎖」が大きく関係していると考えられています。

当時、鉛や硝石(火薬の原料)などの軍需物資は、主に九州(博多・長崎)や近畿(堺)の港に入ってきました。これらは西国に位置しており、東国からは物理的に遠い場所にあります。

近畿地方を制圧した織田信長は、堺などの貿易港を支配下に置き、敵対する東国の大名(特に武田氏や北条氏)に対して、鉛や硝石の売買を制限したと考えられています。これにより、東国には高品質な「輸入鉛」がほとんど回ってこない状況が作られたのです。鉛が手に入らない東国の大名たちは、既存の製品を溶かしたり、代替素材を使ったりして必死に弾丸を確保しました。

小田原北条氏

関東の覇者・北条氏もまた、秀吉との決戦(小田原征伐)を前に深刻な鉛不足に陥りました。講座の資料にも、北条氏照が領内の寺社に発給した梵鐘(ぼんしょう)の徴収についての記録が紹介されています。

領内のお寺から鐘(青銅製)を没収し、それを溶かして鉄砲玉にしました。「戦が終わったら新しい鐘を作って返すから」という借用証書も残っていますが、北条氏は滅亡したため、その約束が果たされることはなかったようです。

甲斐武田氏

騎馬隊で有名な武田信玄・勝頼の軍は、鉄砲隊を持っていましたが、常に弾不足・鉛不足に悩まされていました。

領内の神社仏閣に対し、「賽銭(さいせん)として集まった銅銭を差し出せ」という命令を出しています。実際に、武田氏の前線基地であった長篠城周辺や砦跡からは、中国製の銅銭を溶かして作った「銅の弾丸」が出土しています。

成分分析の結果、当時の通貨と成分が一致しました。銅は鉛より融点が高く(約1085℃)、加工が大変なうえ、軽くて硬いため、威力は鉛に劣りました。それでも背に腹は代えられなかったのです。

受講を終えて

専門的なテーマと新たな知見

戦国時代の火縄銃の弾丸の材質(材料)という、かなり専門的なテーマでしたが、山梨文化財研究所の研究員の方の説明はとてもわかりやすく、資料も丁寧に作られていたので、書籍やネットで調べるときのベースになり、新たな知見を得ることができました。

当時の火縄銃の威力は、「重さ」と「柔らかさ」で決まります。同じ大きさ(口径)の玉であれば、重い方が破壊力が大きくなります。鉛は鉄の約1.4倍の重さがあります。軽く硬い鉄の玉は、空気抵抗で速度が落ちやすく、当たった時の衝撃(運動エネルギー)も鉛より弱くなります。

鉛は溶けやすく加工しやすいため、きれいな「真球(完全な丸)」が作りやすく、鉄や銅は、融点が高く加工が難しいため、表面がデコボコしていたり、歪んだ形になりがちです。形が悪いと、野球のナックルボールのように空中で不規則な変化をしてしまい、飛距離や命中率に影響します。東国の武将たちは、この性能差を埋めるために、「より近くまで引きつけてから撃つ」あるいは「数で補う」といった戦術を強いられました。

硬い鉄や銅の弾は銃身を傷めるため、クリーニングやメンテナンスの頻度が増え、連射速度が落ちた可能性があります。貴重な通貨や鐘を潰す行為は、経済的な疲弊と領民(寺社勢力)の反発を招きました。

一方、質の良い鉛を持っていた織田信長などは、遠距離から正確かつ強力な射撃を加えることができたため、戦術の幅が全く違っていたのです。東国の大名にとって、鉛不足は「材料不足」ではなく、「経済戦争ですでに負けつつある」ことを示す致命的な問題でした。 戦場の勇猛さとは別に、こうした「物流の差」が、天下統一の行方を決定づける大きな要因の一つとなったと推測できます。

「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」で配布された資料 撮影:junk-word.com(爆点日本史編集部)
「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地」で配布された資料 撮影:junk-word.com(爆点日本史編集部)

開催情報

企画名 考古学講座「戦国時代に使用された火縄銃の弾丸の材質と材料産地
主催 葛飾区郷土と天文の博物館
日時 令和7年11月29日(土曜日)午後2時~4時
会場 葛飾区 郷土と天文の博物館 講堂
講師/出演 三浦 麻衣子(みうら・まいこ)氏 (公益財団法人 山梨文化財研究所)
費用 200円
定員 100人(応募者多数の場合は抽選)

戦国時代の火縄銃の弾丸ー東国と西国の戦国大名・まとめ

  • 葛飾区郷土と天文の博物館の考古学講座
  • 火縄銃の弾丸には鉛が最適な理由
  • XRFと鉛同位体比で材質と産地
  • 葛西城出土弾丸と華南産鉛の関係
  • 八王子城・鉢形城に残る粗悪弾
  • 朝倉氏遺跡の鉛インゴットと交易
  • 信長の経済封鎖で東国は鉛不足
  • 北条氏の梵鐘徴収と代用弾丸
  • 武田氏の銅銭弾と火力面での不利
  • 鉛弾と鉄・銅弾の威力と精度差
  • 物流格差が天下統一に与えた影響

受験を目前にした中学生・高校生のみなさん、日本史の総仕上げは進んでいますか。 旧石器時代の流れを、マンガでサッとおさらいできる無料コンテンツを公開しています。試験によく出る重要ポイントを、マンガを読みながらチェックできます。ぜひご活用ください。