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平重衡(たいらのしげひら) 南都焼き討ちの総大将

平重衡(たいらのしげひら)は平清盛の五男として1157年に誕生します。母は平時子、母を同じくする兄弟に宗盛、知盛、徳子 母違いの兄弟に重盛、基盛、盛子、完子などがいます。

平重衡(たいらのしげひら)
*平重衡

中原親能は重衡を牡丹の花にたとえ、九条兼実は「武勇に堪する器量」と彼を評しています。重衡は明るい性格でいたずら好きでもあり宮中の女性からも大変人気があったようです。清盛や時子にも溺愛され順調に出世を重ねていきます。そんな重衡の人生を一変させる出来事が南都焼き討ちでした。


清盛と後白河法皇の対立から端を発した鹿ケ谷の陰謀、治承三年の政変は関白藤原基房の解任、院政の停止と後白河法皇の幽閉という前代未聞の事態になります。天皇家によって保護されてきた東大寺や摂関家の氏寺である興福寺にとっても受け入れがたい状況でした。


これまでも度々利権をめぐり清盛と対立してきた南都(奈良の寺院)勢力は、頼みとする後白河法皇と基房が処罰されたことにより、これまで持っていた利権を平氏に奪われるのではないかとの危惧を抱きます。追い込まれた南都寺院は以仁王の挙兵に協力し平氏打倒の行動を起こすのです。


これに対し清盛は以仁王の挙兵を鎮圧すると重衡を大将にすえ南都寺院に対し攻撃を開始します。南都勢力も僧兵を中心に迎え撃ち激しく抵抗します。重衡は火を放ち相手が混乱する隙に一気に攻め落とす作戦にでますが、折からの強風で勢いを増した火は東大寺や興福寺を業火で覆いつくします。東大寺は本堂を含むほどんどを失い、興福寺も多くの伽藍が焼失します。


この南都焼き討ちにより重衡の評判は一変し、仏敵として憎しみの対象となってしまうのです。清盛の死後、富士川の戦いで敗北を喫した平氏は重衡を大将に任命し源行家ら源氏と墨俣川で相対します。


重衡は敵の作戦を見破り行家軍を撃破!この墨俣川の戦いで一時的に源氏を東国に押し返すことに成功しますが、一ノ谷の戦いでは義経率いる源氏に大敗北を喫し平氏方の有力な武将が多数討死してしまうのです。


重衡は退却する途中乗っていた馬を射られ付き従っていた家来にも見捨てられ源氏の捕虜となります。後白河法皇は平氏が都落ちの際に持ち去っていった三種の神器と重衡の交換を画策し、平氏の総大将宗盛に宛てた手紙を重衡に書かせます。


この手紙を読んだ母時子は重衡を思い涙します。何とか重衡を助けるよう懇願しますが、宗盛はこの交換を拒絶したため重衡の命も風前の灯となります。鎌倉に護送され頼朝と対面をした重衡は「武士であるからには敵の手にかかり落命することは恥ではない。情けがあるなら一刻も早くこの首をはねよ」と言い放つとそれ以後は口をつぐみ言葉を発しませんでした。


この態度に感心した頼朝は重衡の処分を一時棚上げしますが、重衡を憎む南都勢力の引渡し要求が強くなったためこれに応じ奈良へ送ることを決定するのです。奈良への護送途中壇ノ浦で一命をとりとめた妻輔子と対面を果たした重衡は、今生の別れをし額に垂れ下がった髪をくいちぎり形見として輔子に与えました。


南都の僧侶に引き渡された重衡は木津川の河原で斬首され29年の生涯を終えます。重衡の首は般若寺で晒されますが、遺体は輔子が引き取り荼毘に付して供養しました。

≪ 平教経(たいらののりつね) 平氏随一の猛将 | | 平家滅亡 平家の主だった人物の生死 ≫

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