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源義朝

源義朝は1123年清和源氏(河内源氏)の棟梁源為義の嫡男として誕生します。母は中~下級貴族藤原忠清の娘で、終生のライバルとなる平清盛より5歳年下ということになります。


義朝には異母弟が相当数いたらしく知られている人物といえば為朝と行家があげられます。為朝は為義の八男で鎮西八郎とも呼ばれた弓の名手です。身長2メートルという立派な体躯から放たれる強弓は鎧武者二人を射通したと伝えられています。


行家は為義の十男で以仁王が挙兵した際、令旨を携え各地の源氏に蜂起を促した人物です。


義朝が生まれた当時の源氏は平氏におされて凋落していました。その原因となったのが義朝の祖父義親の反乱です。


九州にいた義親は乱暴狼藉をはたらいた上に官吏まで殺害!さらに出雲国の目代までも殺害したため白河上皇によって派遣された平正盛によって討伐されてしまったのです。この平正盛が清盛の祖父であり、伊勢平氏が政治の世界に進出するきっかけとなりました。


幼くして東国に下向した義朝はこの地で源氏の勢力回復に努め独自の行動をとります。上総氏、三浦氏、大庭氏などの支援を受け鎌倉の亀ヶ谷に居を構え南関東一帯に勢力を拡大すると、再び京に戻り中央での巻き返しをはかります。


1153年には従五位下 下野守に昇進し、保元の乱では後白河天皇方につき勝利を収めます。命により敵方についた父 為義を斬り忠誠をつくした義朝ですが、その見返りとして与えられた恩賞は左馬頭のみでした。


同じく後白河天皇方についた平清盛には要職である播磨守と太宰大弐が与えられその差は歴然としていたのです。


後白河上皇と院の近臣である藤原信西に不信感を持った義朝は藤原信頼と謀り、清盛が熊野に参詣する隙を狙い挙兵します(平治の乱)


御所を急襲して後白河上皇を幽閉するとともに、藤原信西を追い詰め自害させるのです。しかし、知らせを受けた清盛が体勢を立て直し反撃を開始すると義朝方には離反者が相次ぎ、東国へ落ち延びる途中側近である鎌田正清の舅 長田忠致の裏切りにあい自害して果てます。享年38歳。

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