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大坂冬の陣

方広寺鐘銘事件で家康から提示された3条件いずれも拒んだ淀君は徳川家との戦を決意します。片桐且元ら慎重派が大坂城から退去したことにより、秀頼の周りには大野治房、木村重成ら強硬派が多数を占め開戦の準備を進めていくのです。


関ヶ原の戦いで改易された大名やその家臣を中心とする浪人たちが続々大坂城に集結!10万人を超える規模になり大坂方のボルテージは上がります。浪人の中では、元大名であった真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝永の3人が中心となり集まった浪人をまとめていきます。


しかし、豊臣恩顧の大名はひとりも駆けつけず、兵の総数や組織力でも徳川方が上回りました。徳川勢の兵力は20万ともいわれ、家康は二条城を、秀忠は伏見城を出て大坂に向かい出陣します。


11月26日に徳川方の上杉景勝、佐竹義宣と豊臣方の後藤基次、木村重成が激突して激しい戦がおこなわれます。また、真田幸村が大坂城の外に真田丸と呼ばれた出丸を築き、前田利常、藤堂高虎、松平忠直の兵を迎え撃ちこれを退けることに成功!大坂方は沸きかえりますが、徐々に数で優る徳川方に押されていきます。


さらに、徳川方は大筒や最新式の大砲を昼夜討ち続け、地下では城内に向かってトンネルを掘り進め淀君にプレッシャーをかけます。しかし、城攻めの名人といわれた秀吉が築城した大坂城は難攻不落の城であり、力攻めすれば徳川方の死傷者も増えることから、両者に和議の気運が高まります。


徳川方からは阿茶の局、豊臣方からは常高院(初)が代表となり和議の交渉が数回行われ
1、大坂城は本丸のみを残して二の丸、三の丸を破壊し、外堀を埋める。
2、淀君を人質としない替わりに大野治長と織田有楽斎からそれぞれ人質を出す。


以上の条件で締結されたのです。


和議が結ばれた直後から徳川方による堀の埋め立てと門、櫓の倒壊が昼夜決行で行われたのですが、徳川方が徹底的にこれらの措置を行ったため豊臣方とトラブルになったとされています。


外堀と内堀 両方とも埋めてしまったのですが、これは最初から和議の条件として合意されていたとする説と、外堀を埋めるどさくさにまぎれて内堀まで埋めてしまったとする説があります。


どちらにしても難攻不落といわれた大坂城は堀を埋められ、門、櫓が壊され裸同然の城となってしまったのです。

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