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江と徳川秀忠の関が原・信州上田城の戦い

真田昌幸
*上田城主 真田昌幸


上杉討伐に向かう徳川軍は、秀忠を前軍の大将として先に出陣させ、家康は本隊を率いて7月21日江戸を発ちます。23日に石田三成挙兵の知らせを受けると、下野の小山で軍議を開き反転して三成を討つことを決定します。


家康は次男結城秀康を上杉のおさえとして残し、家康は東海道を、秀忠は中山道を西上し三成との決戦にのぞむことにしました。


秀忠の軍勢はおよそ3万8千で、家康の懐刀である本多正信や徳川四天王のひとり榊原康政、譜代の勇将大久保忠隣、本多忠政 (本多忠勝の長男)酒井 家次(酒井忠次の長男)などが従い実質的な徳川本隊と呼べる構成です。


中山道を進軍する秀忠軍は、信州小諸にある真田昌幸の居城上田城を攻めます。上田城の真田昌幸は武田、上杉、豊臣と主君を変えながら生き残ってきた老獪な武将であり、領地を巡る争いから徳川家とも対立していた時期があり、豊臣秀吉の仲裁で徳川家と和解して長男信之に本多忠勝の娘を迎えていました。


一方で、昌幸の次男幸村(信繁)は大谷吉継の娘を妻にしていたため昌幸と幸村は西軍に、信之は東軍に味方をしていました。上田城を攻める秀忠軍の中に信之がいたため、信之を使者にして開城を求めますが、昌幸はのらりくらりと対応をして時間かせぎをします。


業を煮やした秀忠は上田城を力攻めにしますが、戦上手な昌幸に翻弄され犠牲者を増やします。城を落とすことができないまま数日が経過したため、上田城攻略をあきらめ後詰の兵を残し西上を開始するのですが、大雨で木曽川を渡ることに時間をとられ関が原の戦いに間に合わないという大失態をおかすことになります。


徳川本隊ともいえる秀忠軍を欠いた状態で関が原の戦いにのぞまざるを得なかった家康は、豊臣恩顧の武将の兵力に頼らざるを得なくなり、関が原後の論功行賞においても豊臣恩顧の大名たちへの大幅な加増を余儀なくされました。


秀忠には、本多正信や榊原康政、大久保忠隣など歴戦の武将がついていながら、なぜこのような事態になったのでしょうか?3万8千という大軍ゆえの油断があったこと、真田昌幸が部類の戦上手だったこと、家臣同士の対立(本多正信と大久保忠隣の対立)などの理由があげられますが、やはり秀忠の武将としての経験の少なさが大きな原因であったように思われます。

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