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藤原頼長(ふじわらのよりなが)

藤原頼長
*藤原頼長


藤原頼長(ふじわらのよりなが)は1120年 父 藤原忠実と母 藤原盛実の娘との間に誕生しました。母違いの兄に忠通、姉に泰子(のちに鳥羽天皇室となる高陽院)がいます。


兄である忠通に男子が生まれなかったことから忠通の養子となりますが、その後男子が誕生したため養子縁組を解消されます。朝廷内の権力争いから頼長を擁護する忠実と忠通の対立が表面化します。


頼長は幼いころから学問に励み頭脳明晰でその学識は「日本一」といわれるほどになります。自分に厳しく他人にも完璧を求める気質が災いして他の貴族の反発にあい味方は少なかったようです。


頼長は養女である多子を近衛天皇に入内させるのですが、これに対抗するため兄忠通も藤原得子(美福門院・近衛天皇の母)の養女となっていた呈子を自分の養女にして入内させるのです。


この対抗策に豪を煮やした忠実は氏長者の地位を忠通から奪い頼長に与えます。藤原得子(美福門院)の後ろ盾で勢力を拡大する忠通に対し、頼長は崇徳上皇に近づきます。


鳥羽院が崩御すると頼長・崇徳上皇と忠通・後白河天皇の二派に分かれ争乱が勃発します(保元の乱)争乱が起こることを事前に予測し、準備を進めていた忠通・後白河天皇側が圧倒的に優勢で乱はあっけなく終わります。


頼長は流れ矢にあたり深手を負います。再起をかけ落ち延びる頼長でしたが、途中の奈良で力尽きその生涯を終えます。


頼長の一族は謀反人として流罪に処せられますが、その後都で災いが頻発します。保元の乱で不慮の死をとげた崇徳上皇と頼長の怨霊のしわざであるとの噂が流れ、これを恐れた朝廷は崇徳上皇に「崇徳院」の称号を贈り頼長には正一位、太政大臣の官位・官職を与えました。

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