教科書で弥生時代を学んだとき、茅ぶきの住居や高床倉庫が並ぶ風景を見た記憶がある人もいるでしょう。そのイメージづくりに大きな役割を果たした場所の一つが登呂遺跡です。登呂遺跡では1951年に復元住居がつくられました。静岡市立登呂博物館の秋季企画展「登呂遺跡と復元建物」は、弥生時代の建物をどのように復元し、史跡として整えてきたのかを考える展示です。復元建物の背景には、日本考古学の歩み、水の多い土地に適応した住居、2度の洪水を経験したムラの歴史があります。
-
復元建物から考える登呂遺跡の史跡整備
-
登呂遺跡に建てられた復元住居
-
開催情報
-
関連イベント
-
復元建物の背景にある登呂ムラの姿
-
登呂遺跡は何時代?弥生時代後期から古墳時代まで続いた
-
登呂遺跡はなぜ有名?水田とムラが一体で見つかった
-
弥生時代の建物はどう復元する?平地式住居と高床倉庫
-
登呂遺跡はなぜ消えた?2回の洪水で変わった集落と水田

復元建物から考える登呂遺跡の史跡整備
登呂遺跡に建てられた復元住居
静岡市立登呂博物館で開催中の秋季企画展「登呂遺跡と復元建物」は、登呂遺跡を中心に、復元された弥生時代の建物へ焦点を当てた展示です。公式ページでは、登呂遺跡を遺跡に復元住居を建てる取り組みの最初と位置づけています。
復元建物は、地面に残った遺構だけでは想像しにくい当時の建物や暮らしを、立体的に伝える役割を担ってきました。登呂遺跡では平成の再発掘調査後に再整備が行われ、発掘成果をもとにした建物のほか、史跡の活用を目的とした復元建物も整備されました。
本展が取り上げるのは、弥生時代の建物がどのような姿だったのかという点だけではありません。復元された建物を通して、発掘成果を史跡の整備へどのようにつなげてきたのかを考える内容となっています。
開催情報
| 展示名 | 秋季企画展「登呂遺跡と復元建物」 |
|---|---|
| 会場 | 静岡市立登呂博物館 |
| 会期 | 2026年10月3日~12月13日 |
| 開館時間 | 9:00~16:30 |
| 観覧料 | 一般300円、高校・大学生200円、小・中学生50円 |
| 休館日 | 月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、祝日・振替休日の翌日 |
関連イベント
| イベント名 | 登呂博物館国際シンポジウム「日韓における建物遺構の復元整備」 |
|---|---|
| 日時 | 2026年11月22日9:30~16:30 |
| 場所 | 登呂博物館1階登呂交流ホール |
| 定員 | 50人程度 |
| 参加費 | 無料 |
| 備考 | 電子申請または電話による事前申込制。先着順。2026年11月1日9:00から申込開始予定です。 |
| イベント名 | 体験イベント「観察!登呂遺跡復元建物とプラモデル」 |
|---|---|
| 日時 | 2026年12月6日10:00~16:30 |
| 場所 | 登呂博物館1階登呂交流ホール |
| 備考 | 学芸員の解説を受けながら復元建物を見学し、登呂遺跡のプラモデルの組み立て・塗装を行う予定です。電子申請または電話による事前申込制で、2026年11月1日9:00から申込開始予定。空きがある場合は当日も受け付けます。静岡市立登呂博物館とフジミ模型株式会社の共催です。 |
展示解説も実施予定です。日程や参加方法などの詳細は、公式ページをご確認ください。
復元建物の背景にある登呂ムラの姿
登呂遺跡の復元建物には、水の多い土地で暮らした人びとの工夫や、発掘によって明らかになったムラの姿が反映されています。復元建物を見るうえで知っておきたい、登呂ムラが続いた時代や住居、高床倉庫の特徴、洪水による変化を紹介します。
登呂遺跡は何時代?弥生時代後期から古墳時代まで続いた
登呂遺跡といえば弥生時代という印象が強く、戦後の本格的な発掘調査でも、約2000年前の弥生時代後期に営まれた稲作集落の姿が明らかになりました。1947年から1950年にかけての調査で確認されたのは、12棟の住居、2棟の高床倉庫、約8ヘクタールに及ぶ水田跡です。
その後、遺跡の理解はさらに更新されます。1999年から2003年に行われた再発掘調査によって、登呂遺跡は弥生時代後期だけで終わったムラではなく、洪水による被害を受けながら古墳時代まで続いていたことが分かりました。登呂博物館では、その年代を1世紀から5世紀までとしています。
集落はその間に4つの時期へ分けられ、2回の洪水も確認されています。現在復元されている登呂ムラは、この長い変遷のうち1回目の洪水以前、集落が栄えていた時期の姿を表したものです。
登呂遺跡はなぜ有名?水田とムラが一体で見つかった
登呂遺跡が発見されたのは1943年。太平洋戦争中に軍需工場を建設していたところ、土器や木製品、水田跡と考えられる杭列などが見つかりました。戦後の1947年から本格的な発掘が始まり、考古学だけでなく地理学、動植物学、建築学など異なる分野の専門家が調査に加わりました。
登呂遺跡の大きな特徴は、住居や倉庫があった区域と、水田が広がる区域を一つの遺跡の中で確認できたことです。さらに、弥生時代の水田跡が確認された日本初の事例となりました。1952年には、弥生時代の遺跡として初めて国の特別史跡に指定されています。
登呂遺跡の発掘は、研究者の組織づくりにもつながりました。調査に集まった考古学研究者を中心に全国組織をつくる動きが進み、1948年4月2日に日本考古学協会が設立されました。戦後の日本考古学が新しい体制で動き始めた時期と、登呂遺跡の本格調査は重なっています。
弥生時代の建物はどう復元する?平地式住居と高床倉庫
弥生時代の住居というと、地面を掘り下げた竪穴住居を思い浮かべるかもしれません。登呂遺跡の住居は平地式住居です。この一帯は地面を掘ると水が染み出しやすく、深く掘り下げた床をつくるには向かない土地でした。
そこで床面をほぼ地表と同じ高さに置き、住居の周囲を土盛りで囲み、その外側に排水用の溝を巡らせていました。登呂遺跡では19棟以上の住居が確認されています。住居の形には、その土地の水環境への対応が表れていました。
もう一つ、弥生時代の建物としてよく知られているのが高床倉庫です。登呂遺跡では収穫した稲などを保管する建物とされ、復元された倉庫では床を地面から約1.3m上げています。床と柱の間に設けられているのが、小動物の侵入を防ぐためのネズミ返しです。遺跡では9棟以上の高床倉庫が確認されました。
登呂遺跡で最初の復元住居がつくられたのは1951年で、建築史家の関野克が設計しました。関野の復原案を分析した研究では、発掘で得られた遺構や建物の姿が表された遺物などを参考にしながら、住居の立体的な姿が検討された経緯を紹介しています。
発掘調査では、柱穴や溝、床面など、地面に残った痕跡が主な手がかりになります。屋根の高さや形、柱をどのように組んでいたのかといった地上部分は、残された痕跡や他の資料を組み合わせて考えることになります。登呂遺跡でも、その後の再発掘によって集落や建物への理解が更新され、史跡の再整備が行われました。復元建物には、それぞれの時期に得られていた発掘成果と研究の積み重ねが反映されています。
登呂遺跡はなぜ消えた?2回の洪水で変わった集落と水田
登呂ムラの歴史を考えるうえで欠かせないのが洪水です。再発掘によって、集落が続いた期間に2回の洪水が起き、大きな被害を受けたことが分かりました。それでも登呂遺跡の利用は終わらず、洪水後に集落が復興した時期を挟みながら、弥生時代後期から古墳時代まで変遷しました。
1回目の洪水後には、水田の大きな区画を囲む畔や水路が杭と矢板で補強されています。洪水による被害を受けた後も、水田を整え直しながら稲作を続けた痕跡です。
再発掘調査では、洪水で集落が埋没した後に再び建物や溝がつくられ、その後、別の洪水で再び埋没したという変遷が確認されています。後の整理では、2回目の洪水後は水田のみが復興したとされています。

