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2026.09.16

岡山県立博物館『宇喜多直家と秀家 ライバルとしのぎを削ったサムライたち』戦国岡山を駆けた宇喜多氏の栄枯盛衰

戦国時代の岡山で勢力を伸ばした宇喜多直家と、その跡を継いで豊臣政権の五大老にまで上り詰めた秀家。父は浦上氏の家臣から有力大名へ進み、子は関ヶ原の戦いに敗れた後、遠く八丈島で生涯を終えました。岡山県立博物館の特別展「宇喜多直家と秀家 ライバルとしのぎを削ったサムライたち」は、この父子と、彼らを取り巻いた武将たちに焦点を当てます。書状や刀剣などの文化財を通して、宇喜多親子と周囲の武将たちが生きた戦国時代の岡山を紹介します。

目次
  • 宇喜多直家・秀家とライバルたちを紹介する特別展
  • 書状や刀剣からたどる宇喜多親子と戦国武将たち
  • 開催情報
  • 関連イベント
  • 宇喜多親子の歩み
  • 宇喜多直家はどうやって備前・美作へ勢力を広げたのか
  • 宇喜多秀家はなぜ若くして五大老になったのか
  • 関ヶ原の敗北から八丈島へ 秀家が過ごした約50年
  • 宇喜多秀家の子孫はその後どうなったのか
戦国岡山を駆けた宇喜多氏父子を表現したAIイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)戦国岡山を駆けた宇喜多氏父子を表現したAIイラスト 作成:junk-word.com (爆点日本史編集部)

宇喜多直家・秀家とライバルたちを紹介する特別展

書状や刀剣からたどる宇喜多親子と戦国武将たち

浦上氏の家臣だった宇喜多直家は、勢力を広げ、1575年には浦上宗景を領国から追い出すまでになります。

その跡を継いだ秀家は羽柴秀吉の支持を得て勢力を広げ、のちに五大老の一人として豊臣政権を支えますが、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍として戦い、敗戦後に領地を失って八丈島へ流されました。

公式ページによると、特別展では宇喜多直家・秀家の一生に加え、備中三村氏や備前浦上氏など、宇喜多氏と勢力を競った武将たちを取り上げる予定です。

主な展示資料には「三村元親書状」「宇喜多直家書状」「八郎制札」、名物「鳥飼来国次」と呼ばれる短刀、甲冑などが挙げられています。新出資料も交えながら、書状や武具などの文化財を通して戦国時代の岡山を紹介する内容です。

開催情報

展示名 特別展「宇喜多直家と秀家 ライバルとしのぎを削ったサムライたち
主催 岡山県教育委員会、岡山県立博物館
会期 2026年9月18日(金)~11月23日(月・祝)
前期:9月18日(金)~10月18日(日)
後期:10月20日(火)~11月23日(月・祝)
会場 岡山県立博物館2階展示室
開館時間 9月30日まで:9:00~18:00
10月1日から:9:30~17:00
※9月18日のみ10:00開館
観覧料 大人460円、65歳以上230円、高校生以下無料
※10月15日は「カルチャーゾーンの日」、11月3日は「おかやま教育の日」のため入館無料
休館日 9月24日(木)・28日(月)、10月5日(月)・13日(火)・19日(月)・26日(月)、11月2日(月)・9日(月)・16日(月)
備考 前期と後期で一部の展示品が変わります。

関連イベント

イベント名 記念講演会「本多政重から見た宇喜多氏」
日時 2026年10月4日(日)13:30~15:00
講師 本多俊彦氏(金沢学院大学教授)
場所 岡山県立博物館講堂
定員 120人
備考 定員に達したため募集終了。聴講無料、入館料は別途必要。

※映像×コンサート「戦国未来協奏曲 宇喜多秀家によせて」、甲冑着付け体験、学芸員による展示解説も開催予定です。日程や参加方法などの詳細は、公式ページをご確認ください。

宇喜多親子の歩み

宇喜多直家と秀家の歩みを知ると、戦国時代の岡山から豊臣政権、関ヶ原の戦い、八丈島へと続く歴史がつながります。展示を楽しむために、父子それぞれの生涯と宇喜多家のその後を紹介します。

宇喜多直家はどうやって備前・美作へ勢力を広げたのか

直家の出発点は、広い領地を持つ戦国大名ではなく、浦上氏に仕える立場でした。1529年に砥石城で生まれたとされ、浦上氏に仕えながら乙子城、亀山城などへ拠点を移し、少しずつ勢力を伸ばしました。

直家がどのように勢力を広げたのかを考えるうえで、拠点の場所も手がかりになります。岡山市東区沼にあった亀山城は、低い丘を利用して築かれ、そのすぐ北側には当時の山陽道が通っていました。人や物が行き交う道を管理しやすい場所であり、直家がこの城を拠点とした背景には、山陽道を押さえる狙いもあったと考えられています。

1560年代後半には備前西部へ勢力を広げ、1568~1570年ごろには岡山城を手に入れました。1573年ごろに本拠を岡山へ移し、家臣を城の周辺に住まわせ、商人や職人も集めて城下町づくりを進めます。1575年には主家だった浦上宗景を領国から追い出し、その後も美作方面へ勢力を広げました。現在の岡山市中心部につながる城下町の基礎も、この直家の時代に形づくられていきます。

直家には、裏切りや暗殺を重ねた武将というイメージも広く知られています。ただ、後世に成立した軍記物や伝承と、直家と同じ時代に作られた史料とは分けて考える必要があります。岡山市の宇喜多直家に関する歴史解説では、現在知られている直家の人物像には、後世の創作によって形づくられた部分が含まれる可能性も指摘されています。直家自身の書状が今回の展示資料に含まれていることは、後世の逸話とは別の角度から人物を考える手がかりになります。

宇喜多秀家はなぜ若くして五大老になったのか

父・直家の死後、幼くして宇喜多家を継いだのが、1572年生まれの秀家です。秀家の成長期と重なったのが、羽柴秀吉が織田信長の死後に天下統一へ進んでいった時代です。宇喜多家は秀吉との結びつきを強め、秀家も豊臣政権の有力大名へ進んでいきました。

その関係を象徴する人物が豪姫です。豪姫は前田利家の娘で、秀吉の養女でもありました。秀家は豪姫と結婚し、豊臣家と親族に近い関係となります。秀家は各地の戦いにも参加し、岡山では城と城下町の整備を進めました。岡山歴史のまちしるべでは、1591年ごろから岡山城を大きく整え、旭川の流れを変え、西国街道が城下を通るようにしたことなどが紹介されています。

秀吉の晩年、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家の5人は、のちに「五大老」と呼ばれる豊臣政権の有力大名となりました。その中で最年少だった秀家は、五大老の一人となった時点でもまだ20代でした。

関ヶ原の敗北から八丈島へ 秀家が過ごした約50年

秀家の人生を大きく変えたのが、1600年の関ヶ原の戦いです。西軍の主力として、徳川家康率いる東軍と戦いました。西軍が敗れると秀家は領地を失い、薩摩へ逃れます。その後、島津氏や前田氏による助命の働きかけを経て死罪を免れ、1606年に八丈島へ流されました。

八丈島の歴史には、秀家が八丈島へ流された最初の流人であり、長男・次男や身の回りの世話をする人々など一行13人で島へ渡ったことが記されています。秀家は1655年に亡くなるまで、約50年を八丈島で過ごしました。戦国大名として過ごした年月よりも、流人として島で暮らした期間のほうが長い人生でした。

妻の豪姫は八丈島へ同行せず、前田家のもとで暮らしました。前田家は秀家と豪姫が亡くなった後も、八丈島に残った子孫へ米や衣類、金銭などを送り続けています。関ヶ原で大名としての宇喜多家は領地を失いましたが、前田家とのつながりは江戸時代を通じて子孫の生活を支えました。

宇喜多秀家の子孫はその後どうなったのか

秀家とともに八丈島へ渡った2人の息子。その子孫も、島で暮らし続けることになります。大きな転機となったのは明治維新です。新政府によって宇喜多家の流罪が解かれ、その後、一族は八丈島を離れました。

一族は前田家の扶助を受け、旧加賀藩の江戸下屋敷があった現在の東京都板橋区周辺に土地を与えられ、農業を始めました。ただ、生活環境の変化もあり、多くの人々が再び八丈島へ戻ったことが「加賀前田家下屋敷跡と宇喜多秀家供養塔」に記録されています。

板橋区の東光寺には、明治時代に板橋へ移った子孫が建てた宇喜多秀家供養塔が残り、板橋区登録有形文化財となっています。

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