江戸時代の人々は、自分たちが暮らす村をどのように捉え、絵図に残したのでしょうか。大分県立歴史博物館で開催されている「江戸時代のムラを描いた絵図-田染組村絵図のこと-」では、豊後高田市田染地域に伝えられた江戸時代のムラ絵図が紹介されています。
田染は、中世に宇佐神宮の荘園だった田染荘が置かれた地域です。大分県立歴史博物館による調査では、小崎地区に約700年前の姿が残されていることが明らかになりました。中世から江戸時代へ。長い時間のなかで受け継がれてきた地域を、絵図という記録から考える展示です。
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田染の歴史を伝える江戸時代のムラ絵図
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田染荘の調査から始まった地域研究
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開催情報
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絵図を読む前に知っておきたい江戸時代の村
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江戸時代の村はどう運営されたのか
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村絵図は何のために作られたのか
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江戸時代の村には何人くらい住んでいたのか

田染の歴史を伝える江戸時代のムラ絵図
田染荘の調査から始まった地域研究
豊後高田市田染は、大分県立歴史博物館にとって長く調査研究を続けてきた地域です。公式ページによると、博物館が開館した昭和56年(1981)から「国東半島荘園村落遺跡詳細分布調査」が始まり、その最初の調査地となったのが宇佐神宮の荘園だった田染荘でした。
調査の結果、田染荘の中心地だった小崎地区には、約700年前の姿が残されていることが明らかになりました。その成果は、2010年に「田染荘小崎の農村景観」が国の重要文化的景観に選定されることにもつながりました。
さらに田染を含む国東半島宇佐地域は、2013年に「クヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐の農林水産循環」として世界農業遺産に認定されています。今回の展示は、この世界農業遺産に関連して企画され、豊後高田市田染地域に伝えられた江戸時代のムラ絵図「田染組村絵図」が取り上げられています。
開催情報
| 展示名 | 江戸時代のムラを描いた絵図-田染組村絵図のこと- |
|---|---|
| 主催 | 大分県立歴史博物館 |
| 会場 | 大分県立歴史博物館常設展示室 |
| 会期 | 2026年8月18日(火)~11月29日(日) |
| 開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
| 観覧料 | 一般340円(団体230円)、高校生・大学生170円(団体110円)、中学生以下無料。団体料金は20名以上。土曜日は高校生無料 |
| 休館日 | 毎週月曜日(祝日・振替休日の場合はその直後の平日) |
絵図を読む前に知っておきたい江戸時代の村
田染組村絵図を考える手がかりとして、江戸時代の村がどのような仕組みで動き、なぜ村の絵図が作られたのかを押さえておきましょう。
江戸時代の村はどう運営されたのか
江戸時代の村は、人々が暮らす集落であると同時に、年貢を納める行政上の単位でもありました。村には名主・庄屋、組頭、百姓代などと呼ばれる村役人が置かれ、地域によって名称や構成に違いがありました。
名主や庄屋は村を代表する立場にあり、領主から伝えられた命令を村人へ知らせるほか、年貢の納入や村内のさまざまな事務に関わりました。組頭はその仕事を補佐し、百姓代は村人側を代表する役割を担いました。こうした役職を通じて、領主による支配と村人たちの生活がつながっていたのです。
年貢も一人ひとりが領主のもとへ出向いて納めるのではなく、村を単位として扱われるのが基本でした。そのため村では、誰がどれだけ土地を持っているのか、どのように年貢を負担するのかといった情報を把握する必要がありました。土地や人、年貢に関する数多くの帳簿が作られた背景には、このような村の運営があります。
現代の市町村役場と同じ制度ではありませんが、江戸時代の村にも、地域の情報を管理し、人々の暮らしをまとめる仕組みがあったと考えると分かりやすいでしょう。
村絵図は何のために作られたのか
江戸時代には、日本全体を描く地図だけでなく、国、郡、村など、さまざまな範囲を対象とした絵図が作られました。そのなかで一つの村やその周辺を描いたものが村絵図です。
村絵図が作られた目的は一つではありません。領主や代官から提出を求められて作成されたもののほか、村境を確定するためや、土地・山林・水利などをめぐる争いに関係して作られたものもありました。何のために作られた絵図なのかによって、描かれる情報や詳しさも変わります。
たとえば国絵図では、広い地域のなかに村名や石高、山、川、道などが記されました。これに対して村絵図は対象範囲が狭いため、一つの村と周囲との関係をより詳しく表すことができました。
現在の地図では方位や距離、位置関係の正確さが重視されますが、近世の村絵図はすべてが現代の測量図と同じ基準で作られたわけではありません。どこが大きく描かれているかだけでなく、何が描かれ、何が文字で書き込まれているのかを見ることも、絵図を読む手がかりになります。
江戸時代の村には何人くらい住んでいたのか
江戸時代の村の人口は、地域や時代によって大きく異なります。そのため「江戸時代の村は平均何人」と一つの数字で表すのは適切ではありません。一方、各地に残る宗門人別帳などから、特定の村に何人ほど暮らしていたのかを調べることはできます。
たとえば現在の岐阜県中津川市にあった飯沼村では、宗門帳が正徳2年(1712)から残されており、この年の人口は338人でした。中津川市史では、その後も宗門帳をもとに明治4年(1871)までの人口と戸数の変化が調べられています。飯沼村の宗門帳を使った分析では、人数だけでなく村人の年齢構成なども検討されています。
宗門人別帳は、もともとキリスト教を禁じる宗門改めと人々の把握に関係して作成された帳簿です。家ごとに人々を記載した史料が残されたことで、後世の研究者は村の人口だけでなく、家族構成や年齢、婚姻、奉公など、人々の暮らしを具体的に調べられるようになりました。
村絵図が土地や道、川などから村の空間を考える史料だとすれば、宗門人別帳はそこに暮らした人々を数字や家族の記録から捉える史料です。同じ江戸時代の村でも、残された史料によって異なる側面を読み取ることができます。

