岐阜県北部に位置する飛驒地方。この地が「飛驒国」として歴史の表舞台に明確な姿を現したのは、飛鳥時代後半の686年(朱鳥元年)のことでした。それ以前の飛驒では、どのような人々が暮らし、独自の文化を育んでいたのでしょうか。現在、飛騨高山まちの博物館で開催されている特別展では、縄文時代から飛鳥時代に至る歩みを土器から紐解いています。厳しい自然環境の中で育まれた独自の造形と、都や周辺地域との交流の軌跡を、出土した遺物から辿る内容となっています。
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土器の変遷が語る飛驒の黎明期と交流
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数千年の時を刻む土器の造形美
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律令国家の誕生と都との繋がり
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開催情報
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飛驒の歴史をより深く知るための背景知識
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古代の幹線道路「東山道」と飛驒
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律令体制下における飛騨工の存在

土器の変遷が語る飛驒の黎明期と交流
数千年の時を刻む土器の造形美
展示の核となるのは、各時代の暮らしを映し出す土器群です。縄文時代を象徴する資料として、高山市の糠塚遺跡から出土した国重要文化財の浅鉢形土器が紹介されています。
また、赤保木遺跡や岩垣内遺跡から見つかった縄文土器も、当時の技術や造形感覚を伝える貴重な資料です。これらの土器は、飛驒の暮らしや周辺地域との交流を考える上での重要な手がかりとなります。
時代が弥生へと進むと、土器の形や用途にも変化が生じました。高山市のウバガ平遺跡から出土した弥生土器や石器からは、飛驒地域では珍しい弥生時代の集落や、飛驒独特の弥生土器文化を探ることができます。
縄文から飛鳥時代へと至る長い時間軸の中で、周辺地域の影響を受けつつも、飛驒独自の文化がどのように形成されていったのかを、土器の変遷を通じて多角的に振り返る構成となっています。
律令国家の誕生と都との繋がり
飛鳥時代後半、ヤマト政権が律令国家として体制を整える中で、飛驒もその一部として組み込まれていきました。飛騨市にある寿楽寺廃寺跡から出土した軒丸瓦は、この地に古代寺院に関わる仏教文化や瓦葺き建物の技術が伝わっていたことを示しています。
山深い飛驒の地が、決して孤立していたわけではなく、都の動向と密接に関わっていたことが、これらの遺物から浮かび上がります。地方が中央の制度に組み込まれていく過程を、具体的な出土品から確認できるのは、本展示の大きな見所です。
開催情報
| 展示名 | 春の特別展「飛驒国誕生への道―土器で読み解く縄文から飛鳥へ―」 |
|---|---|
| 主催 | 岐阜県博物館、高山市教育委員会 |
| 会場 | 飛騨高山まちの博物館 |
| 会期 | 2026年4月11日(土)から2026年6月14日(日) |
| 開館時間 | 9:00から19:00 |
| 観覧料 | 無料 |
| 休館日 | 無休 |
| 関連イベント | 2026年4月25日には第1回の学芸員によるギャラリートークが実施されました。次回のトークは5月23日の13:30から、同博物館2階の特別展示室にて開催される予定です。予約不要で参加できるため、展示資料の背景を専門的な視点から詳しく聞くことができる機会となっています。 |
飛驒の歴史をより深く知るための背景知識
展覧会をより深く楽しむために、当時の交通網や社会制度について解説します。
古代の幹線道路「東山道」と飛驒
律令時代の日本には、都と各地を結ぶ主要な道として七道が整備されました。その中の一つである東山道は、美濃国から東北方面へと続く広大な幹線道路でした。
飛驒国はこの本道から分岐した飛騨支路によって、飛鳥や平城京といった都と結ばれていました。険しい地形を越えて整備されたこの道は、物資の輸送だけでなく、都の文化や制度が飛驒へともたらされる重要な役割を果たしていたのです。
展示で見られる土器や瓦の意匠の変化は、この道を含む周辺地域との交流を考える手がかりとなります。
律令体制下における飛騨工の存在
飛驒国は、古代の税制において非常に特殊な扱いを受けていました。山地が多く稲作に適した平地が少なかったため、庸・調を免除し、その代わりに木工技術に優れた人材を都へ送り出す飛騨工という制度が設けられました。
この制度が現存する史料にはじめて登場するのは、奈良時代の養老2年(718)に制定された養老令のうち賦役令です。その前身である701年制定の大宝律令にも、同様の規定があったと考えられています。派遣された職人たちは都の宮殿や寺院の建設に従事し、その技術は続く奈良時代の壮大な建築プロジェクトを支える土台となりました。
飛鳥時代から奈良時代へと至る国家形成の重要な転換期に、飛驒の人々がその技をもって中央政府を支えていた事実は、地域の歴史を語る上で欠かせない要素です。

