金華山の頂に立つ岐阜城は、織田信長が天下統一への野望を抱いた舞台として知られていますが、近年の発掘調査によって従来の常識を覆す新事実が次々と明らかになっています。昭和59年から続く発掘調査で発見された金箔瓦や石垣の構造は、これまで最初とされていた安土城より先に、岐阜城で「見せる城」としての演出が始まっていた可能性を示唆しています。岐阜市歴史博物館の特別展では、こうした発掘成果を通して信長が造り上げた岐阜城の真の姿に迫ります。
- 金箔瓦の先駆けは安土城ではなく岐阜城だった
- 天守の起源を探る石垣構造の謎
- 戦略的立地と居城移転の意味
- 「おもてなし」による政治手腕
- 開催情報
- 2025年開催中・開催予定の関連展示
発掘調査が覆した城郭史の定説
金箔瓦の先駆けは安土城ではなく岐阜城だった
日本の城郭史においては、織田信長が金箔瓦を初めて使用したのは天正4年(1576年)に築城を開始した安土城とする説が主流でした。しかし、2012年に岐阜城の山麓居館跡(きょかんあと)から、菊や牡丹をあしらった金箔飾り瓦が出土し、歴史ファンを驚かせます。
信長が岐阜城を攻略したのは永禄10年(1567年)。もしこれらが当時から城を飾っていたのだとすれば、安土城より早く「輝く城」が存在していたことになります。「戦うための要塞」であった従来の概念を、「見せる城」「権威を誇示する城」へと変化させた起点が、実は岐阜城にあったかもしれないのです。
金箔瓦は後に豊臣政権下で秀吉の関白叙任と聚楽第の完成後、豊臣一門衆の城でも使用されるようになり、小田原征伐後には全国に広まりました。その原点が岐阜城なのか安土城なのか。どちらにせよ、この華やかな瓦は、信長の革新的な政治手腕と先見性を物語る貴重な証です。
天守の起源を探る石垣構造の謎
令和4年度 岐阜城跡山上部発掘調査では、織田信長の時期に築かれた石垣や天守台の遺構が確認されました。安土城で完成したとされる「天守」の起源を考える上で極めて重要な意味を持つ発見です。
この調査で確認された石垣構造は、江戸時代の絵図『稲葉城趾之図』(伊奈波神社所蔵)に描かれた石垣と実際の遺構が対応することも確認され、絵図の信頼性が補強されました。
岐阜城の石垣構造や巨石列の使用は、後の安土城や近世城郭へとつながる技術的革新の先駆けとして位置づけられています。中世から近世への転換期における日本の城郭建築技術の発展を理解する上で、岐阜城は欠かすことのできない存在なのです。
信長は「戦うための城」から「見せる城」への転換を図りました。金箔瓦による華美な装飾は、敵対勢力に対する威圧効果と、味方への権威の誇示という二重の意味を持っていたのです。
信長はなぜ岐阜を天下統一の拠点に選んだのか
戦略的立地と居城移転の意味
織田信長が小牧山城からわずか4年で岐阜城へと本拠を移したのは、明確な戦略的理由がありました。岐阜は、日本の東西を結ぶ東山道の要衝・不破関(関ケ原)に近く、京都進出を狙う上でこれ以上ない立地だったのです。
戦国時代において、居城の移転はごく稀なことで、多くの大名は先祖伝来の城を守り続けるのが通例でした。しかし信長は那古野城→清須城→小牧山城→岐阜城→安土城と、短期間で次々に本拠を変えています。この柔軟な移転が可能だったのは、家臣団を城下に集住させ、迅速な動員ができる軍制改革を進めていたためとみられます。
岐阜城に入った後、信長は「天下布武」の印章を用い始めました。この印章については、中国の歴史書に記された「七徳の武」に由来するという説もあり、武力だけでなく徳をもって世を治めるという意味が込められていたとされます。岐阜は信長にとって、天下統一へ向けた本格的な歩みを告げる象徴の地となったのです。
「おもてなし」による政治手腕
信長といえば「冷徹非道」というイメージが強いのですが、岐阜城では意外にも手厚い「おもてなし」によって有力者を懐柔していました。山麓に築いた巨大庭園を持つ居館は、まるで山水画の世界を原寸大で再現したような壮大なスケールで、当時岐阜を訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスはそれを「宮殿」と称し、「地上の楽園のようであった」と記録しています。
信長は軍事施設である城に「魅せる」という独創性を加え、要人を招き入れました。そして自ら食事を配膳したり、城内を案内したりするなど、信長流のおもてなしを行ったのです。また、接待には長良川鵜飼を用い、漁師に「鵜匠」の地位を与えて鵜飼を保護したと伝えられています。
城下町では「楽市楽座」によって商業が活性化し、フロイスはそのにぎわいを「バビロンの混雑」と表現しました。人口は約1万人と記し、全国各地から商人が集まる一大商業都市へと発展したのです。信長の政治手腕は、武力だけでなく経済力と文化的魅力によって人々を惹きつける総合的なものでした。
信長の「おもてなし政治」は現代の外交にも通じるものがあります。金華山頂からの絶景を背景に、豪華な居館で接待を受けた客人たちは、信長の財力と権威を強烈に印象づけられたことでしょう。政治とは力だけでなく、印象や演出も重要な要素だということを、信長は500年前から実践していたのです。
開催情報
展示名 | 開館40周年記念特別展「岐阜城と織田信長―発掘成果から考える岐阜城の姿―」 |
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主催 | 岐阜市、岐阜新聞社、岐阜放送 |
会場 | 岐阜市歴史博物館 1階特別展示室 |
会期 | 2025年8月8日(金)~10月13日(月・祝) |
開館時間 | 午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで) |
観覧料 | 高校生以上800円(700円) 小中学生400円(350円)※( )内は20名以上の団体料金 |
休館日 | 毎週月曜日(8月11日・9月15日・10月13日は開館)、9月16日(火)・9月24日(水) |
関連イベント |
学芸員によるスライドトーク(各回40分程度・申込不要・無料)
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※関連イベント/関連講座・講演会の受講料は無料。ただし本展の観覧券(当日入館に限る)の提示が必要です。
関連展示情報
岐阜城展示と合わせて楽しめる関連展示をご紹介します。滋賀県立安土城考古博物館は、2025年3月にリニューアルオープンしました。信長が築いた安土城の高精細フルCG復元映像を上映しており、岐阜城での発掘成果と合わせて見学することで、信長の城郭建築の変遷をより深く理解することができるでしょう。
2025年開催中・開催予定の関連展示
施設名 | 展示名 | 会期 | 概要 |
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滋賀県立安土城考古博物館 | リニューアル常設展示 | 通年開催 | 安土城と信長・戦国時代をテーマとする博物館として展示リニューアル。高精細フルCGによる安土城復元映像を上映。 |
泰巖歴史美術館 | 常設展示「信長の生涯」 | 通年開催 | 安土城天主閣を原寸大で再現した展示。戦国時代から江戸初期の古文書・書画・武具・茶道具を中心とした貴重なコレクションを公開。 |
上野の森美術館 | 正倉院 THE SHOW―感じる。いま、ここにある奇跡― | 2025年9月20日~11月9日 | 史上初、織田信長も切り取ったとされる香木「蘭奢待」の香りを科学的に再現展示。正倉院宝物の超高精細映像と再現模造による没入型展覧会。 |
織田信長と岐阜城の歴史のまとめ
- 2012年に金箔瓦が発見
- 金箔瓦の使用は安土城より岐阜城が早い可能性
- 「戦うための要塞」から「見せる城」への転換点
- 令和4年度調査で信長期の天守台石垣を確認
- 江戸時代の絵図と実際の遺構が一致することを証明
- 信長は4回の居城移転で柔軟な戦略を展開
- 「天下布武」印章で天下統一への意志を表明
- 山麓居館でのおもてなし政治で有力者を懐柔
- ルイス・フロイスが岐阜城を「宮殿」と称賛
- 楽市楽座により人口約1万人の商業都市に発展
- 信長は武力・経済・文化の総合的政治手腕を発揮